大連市の鄒秀菊さん 迫害され死亡 
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 【明慧日本2023年9月4日】(遼寧省=明慧記者)大連市の法輪功学習者(以下、学習者)鄒秀菊さんは8月10日午前6時、留置場と労働教養所で様々な拷問を受け、迫害され家に帰られない状況の中で亡くなった。享年63歳。

 法輪功は世界の人々に親しまれる精神修養法であるが、1999年以来、中国共産党(以下、中共)によって迫害されている。

 鄒さんは1996年1月に交通事故に遭い、右腕が不自由になったが、同年、法輪功を学び始め、不自由だった腕が回復した。それ以来、20数年間にわたって薬を飲んだことはなく、道徳心も向上し、何事にも他人のことを優先に考え、利益に対して淡泊になり、営業で賄賂を受けることもなかった。

 1999年7月、中国共産党(以下、中共)による法輪功への迫害が始まって以来、鄒さんは4回家宅捜索を受け、2回労働教養を強いられたことがある。期間中、薬物による迫害を含む様々な拷問を受けた。また、洗脳班に監禁され、国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)、派出所の警官や、地域の役員によく尾行され、昼夜を問わずドアを叩かれ、数え切れないほど脅迫された。ある警官は公然と「上からの法輪功に対する(迫害の)動きがあれば、すぐに来る。たとえ逮捕の目標人数が一人だけであっても、お前は含まれる」と言ったことがある。鄒さんは家に帰ることができず、亡くなるまで安定した場所がないまま生活を送っていた。

 以下は、鄒さんが中共に迫害された事実である。

 大連労働教養所で鉄の檻に閉じ込められる

 2001年4月のある日、大連市中南路派出所の警官4人が突然、鄒さんの家に押し入り、何の証明も示さずに家宅捜索を行い、すべての法輪功書籍と資料を押収し、鄒さんを大連留置場に拘禁した。この突然の迫害で、鄒さんは精神が崩壊し、パニック状態になり正常な思考ができず、不眠症になった。

 学習者が一気に連行された結果、留置場は過密状態になり、各監房の半分が学習者であった。狭い監房は人でごった返し、夜、全員が太刀魚のように横向きに寝ており、トイレから帰って来ると寝る場所がすぐになくなった。

 鄒さんは40日間留置場に拘禁された後、1年6カ月の労働教養を言い渡された。その後、健康上の問題で仮釈放され、40日間自宅にいたが、迫害を暴露する資料を配布したとして再び連行され、刑期が2カ月延長され、大連労働教養所に送られた。

 大連労働教養所では、学習者に法輪功を放棄させるため、警官らは学習者に様々な拷問を加えるだけではなく、受刑者にも拷問するよう指示した。一人の学習者を「転向」させれば、受刑者は褒美として減刑されるため、受刑者らはあらゆる手段を使って学習者に「保証書」を書かせるのだ。

拷問のイメージ図:鉄の檻に閉じ込められる

 鄒さんは法輪功を学ぶことを堅持し続けたとして、鉄の檻に閉じ込められたり、背中に手錠をかけられたり、立ったまま姿勢を強要されたりした。少しでも動くと、受刑者に板で叩かれた。また、2人の受刑者は鄒さんの足を持ち上げて両側に開き、その痛みは内臓を引き裂くほど耐え難いものであった。

 労働教養所では、学習者は拷問されるだけでなく、一日中働き、ベッドシーツに刺繍をし、冬着を作り、昆布結びなどの強制労働をしなければならない。激しい肉体労働により、さんの身体は極度に衰弱した。

 大連留置場で「地の輪」による拷問

 2005年4月、鄒さんは大連開発区で迫害の実態を伝えていたところ、保税区派出所の警官に連行され、姚家留置場に送られた。身体検査の際、鄒さんが検査を拒否したことで、警官は鄒さんを留置場に入れるために、自分の尿を使って検査をした。それを知った鄒さんは検査票を破って抵抗したが、パトカーに押し込まれ、大連留置場に移送された。

 留置場では、鄒さんは24時間手錠をかけられたため、断食して抗議した。警官はまた手錠と足かせを繋いで、鄒さんを跪いた状態にさせ背中に手錠をかけ、ベッドで24時間固定した。この種の拷問は「地の輪」と呼ばれる。

酷刑演示:野蛮<span class='voca' kid='74'><span class='voca' kid='74'>灌食</span></span>

拷問の再現:無理やりに灌食される

 最も耐え難いのは強制灌食で、彼らは液状の冷たいトウモロコシを鄒さんの胃の中に注入したあとも、チューブを抜かずに挿し込んだままにした。背中に手錠をかけられているため、両手が腫れて感覚を失い、重たい足かせと跪いている苦しい姿勢で拷問を受けていた。

 馬三家労働教養所で受けた迫害

 20日間後の2005年5月、鄒さんは2年の労働教養を科され、遼寧省の馬三家労働教養所に移送された。期間中、鄒さんは死人ベッド、灌食、開口器による拷問と精神的迫害を受けた。

中共酷刑示意图:死人床

拷問のイメージ図:死人ベッド

 2006年5月、鄒さんは断食をしていたとして、死人ベッドに縛り付けられ、口を開かせるために開口器を使って1日中ずっと口を大きく開けた状態にされた。警官・馬吉山が開口器を調整し口を大きくしたり小さくしたりしたため、鄒さんは歯が1本折れ、口から血が流れ出た。その時、鄒さんは死人ベッドに固定されていたため、まったく動くことができず、23日間も開口器をつけられた。

 洗脳班で迫害された

 2010年7月21日、鄒さんは甘井子区華中派出所の警官により連行され、家宅捜索を受け、撫順洗脳班に送られた。洗脳班で1カ月以上迫害され、8月27日にようやく洗脳班から解放され、自宅に戻った。

 兄の鄒文志さんは打ち殺された

 鄒さんの兄・鄒文志さんも法輪功を学んでおり、大連化学工業グループ会社の新アルカリ工場の技師、設備担当者であった。2000年10月16日、会社の公安課の人員は、鄒文志さんに法輪功を放棄させるために、午前8時から午後3時か4時まで殴り続け、鄒文志さんは打ち殺された。享年54歳。鄒さんの家族は、「真相を言うな」と脅かされた。

中共酷刑示意图:殴打

拷問のイメージ図:殴打される

 鄒文志さんの遺体は非常に惨烈で、至るところに殴打の痕跡があり、青と紫のあざだらけになり、ズボンが破れ、膝が砕けていた。法医学解剖の鑑定によると、心臓が損傷し、肋骨が折れていた。法医学医は、「非常に激しい暴行を振るわれた。皮膚を破らない拷問器具で殴られたようで、内部はすべて粉砕されていた」と言った。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2023/8/30/464739.html)
 
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