迫害の停止は子供たちの願いです(中)
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 文/台湾の大法弟子

 【明慧日本2024年6月30日】(前文に続く)真・善・忍を修煉する善良な人々が迫害を受けることは、子供たちにとって取り除くべき闇です。子供たちの顔は澄んだ鏡のように、純粋な心を忠実に映し出しています。子供たちの優しい言葉は、心からの愛と太陽の光から生まれています。

 中国共産党(以下、中共)による法輪功への迫害は、1999年7月20日から始まり、2023年11月20日現在で24年間続いています。明慧ネットの不完全な統計によると、迫害によって死亡し、氏名などの個人情報が確認された法輪功学習者(以下、学習者)は5010人に達しています。また、数万人の学習者が不当に判決を下され、数十万人が不当に労働教養を科されました。永遠に家族を失った、または一時的に家族を失った子供たちは、長い間、深い悲しみ、屈辱、恐怖、怒り、そして混乱の中にいます。これらのデータは、中共によるインターネットと情報の封鎖を突破することで得られたものであり、実際の迫害状況はさらに深刻なものとなっています。

「なぜ、僕と遊んでくれないの?」、5歳の王浄君

「差別しないで!」と10歳の張家瑞君

 5歳の王浄君の写真を見ると「なぜ、僕と遊んでくれないの?」と言いたげな表情をしています。王浄君は重慶市出身の学習者である段世瓊さんと王治海さんの息子です。2001年7月、王浄君の父親は四川省綿陽市新華労働教養所で迫害を受けました。2003年9月17日、王浄君の母親は四川省成都市留置場で迫害されて亡くなりました。

 王浄君は祖父母に育てられましたが、中共の虚言の毒害によって同じグループに属する人々は彼をあざけり、口汚くののしりました。幼い王浄君は、抑うつと悲しみに包まれた日々を送りました。その頃、王浄君と非常に似た境遇にあった長春市の7歳の少女の鄭先楚さんは、学校生活に適応するために人前で両親の本名を言うことさえ恐れていました。

 もし、2004年に黒龍江省大慶市出身の10歳の少年の張家瑞君と出会ったら、彼の寂しげな顔にすぐに気づくでしょう。2004年12月、張家瑞君の父親の張斌さんは再び連行され、不当に拘禁され、綏化労働教養所で残酷な迫害を受けました。張家瑞君は小学校3年生になりました。

 張家瑞君の母親の成慶蘭さんは、「子どもが長期間にわたり父親の愛情や支援を受けない状況で、同級生や教師、その他の環境から差別を受け、自己評価が低くなり抑うつ的な気分に陥り、学業成績が低下し、直接子どもの身心の健康に影響を与えました」と話しました。

 この中共の虚言と、圧迫によって生み出された社会差別は、時には未成年者にとって耐え難いものとなります。重慶市江津市の13歳の少女の李清清さんは、母親が中共によって迫害され亡くなった後、仲間や同級生から冷たくされ、嘲笑されました。その結果、彼女は腹立ちのあまり100mlの農薬を飲んでしまいました。

「僕はあの悪人たちが怖い!」と話す万如意さん

「孤児院が怖い!」と話す劉響君

 中共は法輪功を弾圧する政策の一つとして、「肉体的な消滅」を掲げています。政策の恐ろしさは、子供たちの顔にそのまま表れています。江西省南昌市の万如意さんは4歳のころ、「あの悪人たちが私たちを尾けている!」と公園を歩くだけで恐怖に怯えていました。

 万如意さんの父親は万裏驥さんといい、江西省南昌市東湖大隊の元公安警察官でした。法輪功を修煉したため、5年間、心身ともに深刻な迫害を受け、2004年2月9日に34歳という若さで亡くなりました。万裏驥さんが亡くなった時、遺体は血が止まらず、火葬されるまで続きました。万裏驥さんが無実の罪が晴れずに亡くなった後、万裏驥さんの家族は母親が行う小さな商売で生計を立てました。4歳の万如意さんはよく独り言のように「お父さんに電話したい」と言いました。そして公園を歩いていると、時々中共の警官に監視されていることに気がつきました。

 深圳市の劉響君は、11歳の時に一番怖かったのは孤児院でした。劉響君の両親はもともと深圳市南頭中学校の教師でした。母親の王暁東さんは、2003年7月に深圳市南山留置場で迫害されて亡くなりました。父親の劉喜峰さんは、2003年12月に不当に懲役10年の判決を下され、四会刑務所で迫害を受けました。11歳の劉響君は、いつも恐怖を抱きながら深圳市の孤児院で暮らしました。劉響君が孤児院から逃げ出すと、警察に追われました。

 湖南省永州市の劉曉天さんは、幼少期から青年期にかけて中共の警官に追われる恐怖を味わいました。2001年11月23日、劉曉天さんは自分の両親を迫害した警官が学校に自分を逮捕しに来ることを知り、恐怖で学校から逃げ出し、隣人の家の物置小屋に一晩隠れました。しかし、2、3日後、7、8人の警官が劉曉天さんの隣人を脅迫し、劉曉天さんは仕方なく叔父を頼ることになりましたが、数カ月後、劉曉天さんは警察に発見されてしまいました。

 そこで叔父は友人に助けを求め、劉曉天さんを深圳市にある麻袋がたくさん積み上げられた大きな倉庫に送りました。そこで、劉曉天さんはなんと1年以上も過ごしました。その後、叔父は多額の借金をして、劉曉天さんをデンマークに送り込む手はずを整えました。劉曉天さんはデンマークで難民資格を取得した後、母親も中共によって殺害されたことを知りました。

「両親を返してください!」と訴える孫明遠君

 胸にプラカードを下げたこの小さな男の子は孫明遠君といい、吉林省徳恵市出身です。孫明遠君の両親は真・善・忍を信じ、善い行いを心がけました。孫明遠君の父親である孫遷さんは不当に懲役12年の判決を下されました。彼の母親である馬春麗さんは2004年12月に徳惠市留置場に不当に拘禁され、迫害されて危篤状態になりました。孫明遠君は孤独で頼る人がいなかったため、仕方なく母方の叔母と助け合って生きていくことにしました。2005年旧正月の朝、孫明遠君は吉林省德惠市にある商業ビルの前に立ち、両親の悲劇を訴えるプラカードを掲げました。プラカードには、両親が不当に迫害されていることが書かれていました。孫明遠君は、人々にこの出来事に注目してもらい、支援の手を差し伸べてもらうことで、両親と早く再会できることを願いました。

「自分を殺してもいいから、お母さんを返してくれ!」と訴える楊盛偉さんと妹

 妹を背負って警察署へ母親を尋ねに行った少年は楊盛偉さんといいます。彼はその前日、吉林省白山市撫松県公安局の警官に革靴で顔を蹴られました。しかし、恐怖よりも怒りが勝り、13歳の楊盛偉さんは3歳の妹を背負って、再び撫松県公安局に母親の釈放を要求しに行きました。楊盛偉さんの母親の楊忠紅さんは、2006年9月19日に法輪功が迫害されている実態を伝えた時に不当に逮捕・拘禁されました。不当に拘禁されている間、鉄椅子に縛り付けられ、脅迫と拷問を受けました。

 河北省雄県の12歳の少女の劉倩さんの出来事は、家族、友人、教師の心に深く刻まれています。出来事は河北省雄県葛各庄村で起こりました。葛各庄村小学校の3年生である劉倩さんは、2003年11月15日から急性白血病を患い、いつ命を落としてもおかしくない状態でした。家族は彼女が亡くなった時に着せる衣装まで準備していました。どうにもできない状況の中で、試してみようという気持ちで、劉倩さんの両親は子供(劉倩さん)と共に法輪功を学び始めました。劉倩さんが修煉を始めて7日後、驚くことに病気が完全に治り、寝たきりの状態から普通の生活に戻りました。病院の検査では、劉倩さんが全て正常に回復したと診断されました。

 わずか2カ月ほど学校に通い始めたばかりなのに、学校長は中共の圧力に屈し、劉倩さんを不当に学校から追い出し、法輪功の修煉を放棄しなければ入学できないと宣言しました。学校から追い出された翌日、劉倩さんは校長を見かけると、怒りを表しながら涙を流し、校長を指さしながら「彼、彼、彼・・・」と怒りに震える声で言いました。絶望と迫害の中で、劉倩さんの精神は日に日に衰え、5日後に鬱病で亡くなりました。

 劉倩さんは目を閉じることなく亡くなりました。彼女には多くの疑問がありました。なぜ校長は生徒の命を大切にしないのか? なぜ政府は法輪功の修煉を許さないのか?

「なぜ?」と話す劉黙涵君

「どうして?」と話す徐帥君

 なぜ・・・? 子どもたちには、なぜ多くの質問があるのでしょうか。吉林省農安県の劉黙涵君は、5年生の時に「なぜ私の父、劉成軍を苦しめて殺害しなければならなかったのですか? 私の父親が法輪功が迫害されている実態を伝えることは何が間違っているのですか? なぜですか・・・?」と尋ねました。

 6歳から法輪功を修煉している吉林市の徐帥君が尋ねたいことは、「なぜ煉功を禁止するのですか? なぜ私の父を殺したのですか? なぜ私の祖父を殺したのですか? どうして・・・?」ということです。

 まだ成年に達していない子供たちは、幼い者は2歳、年上の者でも10代に過ぎません。 子供たちの罪のない幼い命は、中共による法輪功への狂気の迫害の中で、年齢不相応な地獄を味わいました。

 本来、憂いも心配もない天真爛漫なはずだった子供時代は、中共の迫害によって引き起こされた暗闇にのみ込まれました。暗闇に包まれた、法輪功を修煉する子供たちは、単なる客観的な冷たい数字で表したものではなく、この世界に実在する生きた命なのです。

 (続く

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/6/14/478650.html)