済公の伝説:羅漢の生まれ変わり 古井戸で木を運ぶ
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 【明慧日本2024年10月14日】

 羅漢の生まれ変わり

 済公は、もともと姓は李、名は修元と言われています。宋の時代の天台山の出身で、杭州西湖の霊隠寺で剃髪して僧侶となり、道済という法名を授かりました。しばしば狂気を装い、人々を癲狂の状態で救済したため、「済癫」という異名を持つことになりました。しかし彼の狂気はただの見せかけで、伝説では佛法無限の力を持ち、困っている人々を救済したため、「済公活佛」という尊称を得ました。

 李修元は、18歳の時に両親を亡くしました。そして3年間の喪に服した後、西湖の霊隠寺で剃髪して僧侶となりました。住持の遠瞎堂は、彼が羅漢の生まれ変わりであると知り、弟子として迎え入れて「道済」という法名を授けました。遠瞎堂が亡くなった後、済癫は南屏山の浄慈寺に移りました。南宋の開禧2年(西暦1206年)の5月16日、済癫は座禅のまま入寂し、以下の詩偈を残しました。「六十年来狼籍、東壁打倒西壁、于今收拾归来、依旧天青水碧」(六十年余の流浪で、東壁から西壁に移るように、今帰ってきて見ると、あい変わらず天青く、水碧し)。済公は死後、杭州南西の大慈山虎跑泉の近くに葬られ、当地には二階建ての済公塔院が建てられました。

 伝説によると、済公の父は李茂春、母は王氏で、夫婦は30歳を過ぎても子供ができなかったため、日夜神佛に祈りを捧げました。ある夜、王氏は一尊の羅漢が五色の蓮花を贈る夢を見ました。王氏がその花を受け取って食べると、間もなく妊娠しました。

 そして南宋紹興三年(西暦1133年)2月2日、一人の子が生まれました。男の子を授かった夫婦は大いに喜び、満月の時に盛大な宴を開いて賓客を招きました。当時、高僧の性空が祝賀に訪れ、「修元」と名付けたと言われています。済公の使命は、如来佛の前にいた大鵬鳥の捜索でした。天の条理を破って勝手に下界に逃げたため、降龍羅漢(済公)が下界に転生し、大鵬鳥を探しに来たとされています。そして済公は世間で様々な試練を経験し、多くの苦難を乗り越えた末、最後には使命を果たしました。

 民間伝承では、伝説的な人物とされています。秦丞相と知恵を競い、腐敗した役人を罰し、不正を見かけたら剣を抜いて助けたと言われています。しかし、その行動はしばしば笑いと怒り、ユーモアと面白さに満ちて描かれています。これらの事跡は、市井に伝わる『済公伝』に詳しく記されています。

 中国の蘇州にある西園寺の済公像は、まさに特別なものです。破れた衣をまとい、破れた扇を手にしていますが、表情はとても生き生きとしています。三つの異なる角度から見ることで、異なる顔立ちが見られます。一つは満面の笑みで「春風満面」(春風が顔いっぱいに広がる)と呼ばれ、もう一つは眉をひそめた表情で「愁眉苦顔」(眉をひそめた苦しそうな顔)と呼ばれます。最後の一つはこの二つを合わせたようなもので、「半哭半笑」(半笑い半泣き)または「哭笑不得」(苦笑い)のように見えます。この高度な彫刻技術は、済公のように何事にも我が道を行く姿勢や、笑いと怒りを同時に持つ態度を見事に表現しています。

 古井戸で木を運ぶ

 言い伝えによると、済公が初めて西湖を訪れた時は、霊隠寺で火を起こす僧侶として働いていました。その後、長老に悟りを得るよう促され、一時的に悟りを開きましたが、他人に見破られることを恐れて狂気を装い、人々の耳目を混乱させました。浄慈寺に移ってからは、経籍を写す「書記」として働き、数々の奇跡を行いました。

 少林寺の高僧である妙崧禅師が朝廷の命令を受けて浄慈寺の第二十九代住持を務めることになり、寺院を再建するために各地から資金を募る必要がありました。妙崧長老は済書記の文才を知っていたため、彼に募金の公告を草稿させました。済公は「長老の命とあれば、お受けしないわけには参りません。ただ、酒に酔わなければ文思が湧かないので、一壺の酒をお与えください」と言いました。妙崧長老は、すぐに酒を用意しました。済公は酒を飲んで気分が高まり、一気に公告を書き上げました。そこには「下求众姓,盖思感动人心;上叩九天,直欲叫通天耳」(下には衆生に求め、心を感動させることを考え;上には九天に叩き、天耳を直に呼び覚ます)という妙句がありました。

 この公告が掲示されると、杭州全体で大きな反響を呼び、南宋の皇帝もそれを目にしました。皇帝は「上叩九天」、「叫通天耳」などの妙句に感銘を受け、三万貫の資金を寄付しました。

 妙崧長老は、皇帝の恩に感謝しました。そして済書記に、寺院の再建に必要な木材を四川からどう手配するかを相談しました。済公は「浄慈寺のために働くなら、『天耳』にも通じます。ただ、四川は遠いので、大いに酔わせていただければ、三日後には木材を用意できます」と言いました。そして大いに酔い、三日間眠り続けました。目覚めた時、済公は突然叫びました。「木材が到着した!木材が到着した!」。長老が「木材はどこにあるのか?」と尋ねると、済公は「木材は銭塘江から運び、寺の醒心井に届きました。井戸の口に木枠を作り、滑車を装着して、一本ずつ引き上げればいいのです」と答えました。しばらくすると、井戸の中に大きな木材が浮かび上がってきました。僧侶たちは、滑車を使って木材を引き上げました。一本引き上げると、井の中からもう一本が浮かび上がってきました。七十本目まで引き上げた時、木材を計測していた大工が「もう十分だ」と言いました。するとその直後、井戸の中の最後の一本が引き上げられなくなりました。

 それ以来、醒心井は「神運井」とも呼ばれるようになり、「運木古井」とも称されました。井戸の上には亭子が建てられ、最後の一本の木材は井戸の底に残されました。人々は長い紐に蝋燭を結びつけて井戸の中に入れて観察するようになり、これが浄慈寺の最も魅力的な「古跡」の一つとなりました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2002/6/28/32445.html)
 
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