文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年12月21日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修のみなさん、こんにちは!
私たちがグループでの法の暗唱を始めてから3年半が経ちました。この3年半の間、私は集団学法の環境の中で着実に修煉していると感じています。
一、師父からいただいた集団学法の環境
私は以前、何年もの間、刑務所で迫害を受けていました。帰宅後、最初に直面したのは生計の問題でした。最初の数年、私は仕事に多くの時間と精力を費やしました。忙しくなり、気がつくと、静かに学法する状態を見つけることができなくなっていました。その後、仕事の負担は少し軽くなったものの、時間があっても心を静めて学法することができませんでした。
学法しても法が心に入らないというのはとても恐ろしいことです。なぜこんな状態になったのかを自分で反省しました。その結果、私は自分のうぬぼれや師父への敬意を欠いた態度を問題として見つけました。
師父は常に集団学法を勧めておられます。私は他の同修が集団学法の環境に入るように積極的に促していましたが、自分自身については集団学法があってもなくても構わないと思っています。潜在意識の中で、自分は集団環境にいなくてもまだ大丈夫だろうと思っていたのです。師父の言葉に従わないのは、弟子なのでしょうか? これは師父に対する不敬であり、師父を信じないことです。
私は師父に「私が間違っていました」と告げ、師父に頼んで、私と姉と一緒に学法できるように同修を送っていただけるようお願いしました。なぜなら、姉はお店を経営しており、普段は店から離れられないからです。もし私が別の場所に学法に行くと、姉は完全に集団学法の環境を失ってしまうからです。
しばらくして、同修Aさんが来ました。同修Aさんの家族の同修が連行されたため、同修Aさんは少し緊張していました。また、他の同修からは、邪悪が実際には彼女を狙っていると言われており、同修Aさんは家にいることを恐れ、どこに行けばいいのか分からない状態でした。
私は同修Aさんに私たちと一緒に学法をしてもらうよう頼み、しばらく私の家に滞在することにしました。同修Aさんが私に、「家族の中に連行された人がいるが、私があなたの家に住んでいたら、あなたにプレッシャーはかかりませんか?」と聞いたのですが、私は心の中でとても確信を持っていたので、「プレッシャーはありません」と答えました。
そして私たちは交流しました。具体的にどんなことを話したのかは覚えていませんが、同修Aさんが言ったことを覚えています。「この環境は本当に大事です」と。私たちが一緒に交流していると、同修Aさんは、邪悪が自分とは何の関係もないと感じ始め、うちに来た時、最初に抱えていた緊張感が消え去りました。
私たちの集団学法が始まりました。同修Aさんは私たちの地域でとても目立つ大法弟子で、私と私の姉もまたとても目立つ存在でした。私たちは一緒に学法をすることにしましたが、最初は多くの同修が心配していました。「あなたたち3人は注目されているのだから、毎日一緒に学法して大丈夫なのですか?」とも言われ、さらに「警察があなたの家に来る夢を見た」という同修もいました。
この問題について、師父は私に正念を与えてくださいました。私はずっと、同修Aさんが私の家で学法するのは、師父に頼んだ結果だと思っています。そのため、師父の安排が何よりも重要で、師父が按排されたことに対して誰が手を出せるでしょうか。そもそも、注目されるかどうかは自分の心が引き寄せるもので、もし自分が邪悪に特別に注目されていると感じるなら、自分の心を見直すべきです。そういう心がなければ、他の人、警察も、あなたが特別で注目するべき人物だと感じることはないのです。
同修Aさんがうちに来て学法を始めた当初、彼女は3、4時間ずっと学んでいました。私と姉は長時間動かずに学法することはできませんでした。姉は最初の数日、心の中で「同修Aさんはどうしてまだ帰らないんだろう?」と思ったと言いました。もちろん、私たちはこれが思想業の反応であることをはっきり理解していました。
二、集団で法を暗唱「私たちは法を暗唱する問題で一つの全体を形成するべきだ」
私たちが『轉法輪』を1回読み終わった後、同修Aさんが集団で法を暗唱することを提案しました。同修Aさんは、他の場所で嫁姑の2人ともう1人の同修が何年も集団で法を暗唱していると言いました。警察はほかの同修を妨害しても、彼女たちを妨害しないということでした。彼女たちは警察に他の人も妨害しないように伝え、非常に正しい環境ができていたと聞いていました。私たちはその3人に会いに行き、どうやって暗唱しているかを聞こうとも議論しましたが、結局行かないことにしました。誰かが何かをうまくやっていると聞くと、それを見に行こうと思うことは法に符合していません。人を崇拝しようとする心が生まれようとしているかもしれません。私たちは集団で法を暗唱すると修煉状態がよくなることを理解している以上、法に従って実践し、集団で法を暗唱すればよいのです。
私は以前、一度途切れ途切れに『轉法輪』をほぼ1回覚えたことがありますが、集団で暗唱するときには最初、ちょっと難しく感じました。でも私は後れを取らないように、勇気を出して一緒に暗唱しようと思いました。私たち3人のなかで、姉は学法が少なかったのです。最初の20年間で一年に数回『轉法輪』を読む程度でした。また、記憶力が同修Aさんや私ほど良くないと感じていました。同修Aさんは私たち3人の中で一番学法を多くしており、以前『轉法輪』を1回暗唱したことがあります。私たちは皆、それぞれ学法の習熟度や記憶力が異なるため、一緒に法を暗唱できるかが最初の課題でした。
この点について同修Aさんはとても法にかなった態度を持っており、全く焦ることはありませんでした。第一講を暗唱する時、同修Aさんはとっくに覚えていましたが、姉は頭の中で、まだほとんど何も整理できておらず、全然覚えられませんでした。私はちょっと恥ずかしく感じて、同修Aさんが姉をあまりにも長く待っているのが申し訳なく思いましたが、同修Aさんは、「私たちは法を暗唱する問題で全体を形成するべきです」と言いました。
私たちは毎日、法を暗唱する前に30分間正念を発します。3人が座っていると、とても静かでエネルギー場が非常に強く感じられました。暗唱する方法は、一段落をみんなで10回か8回読む(第2回、第3回に暗唱するときはあまり多く読まないことが多かった)、その後、1人で少し黙って暗唱して、大体暗唱できた時に、1人ずつ暗唱します。そして3人がすべて間違いなく覚えたら、次に1、2回みんなで一緒に暗唱します。姉は最初、暗唱がとても辛かったのです。私たちと一緒に暗唱しても完璧に覚えられず、帰宅してから母のところを訪れ、母に一緒に暗唱するように頼みました。その時、法のメカニズムがすばやく稼働しはじめました。辛うじて第一講をようやく覚えた後、第二講はあまり苦労しなくなり、同修Aさんと私が覚えたタイミングで、姉もほぼ暗唱できました。
この現象は他の2人の同修にも見られました。最初は学法の基礎が不足していて集団での暗唱に追いつけないと思いましたが、しばらく暗唱を続けた後にはすぐに追いつくことができました。私たちは集団暗唱が自分で暗唱するのと全く異なると感じ、集団暗唱の方がより確実で心に入るとともに、速く進んでいると感じました。
しばらくの間、私たちがすべて覚えた後、もう一度集団で暗唱していると、その声が宇宙と共振しているように感じました。一度、ある同修が私たちのところに来て、仕事のことで交流したいと言いましたが、私たちはまず法を暗唱しようと伝え、1時間ほど暗唱してから話し合いました。すると、その同修はこう言いました。「あなたたちの法を暗唱する場は本当に静かで力強いですね。来る時は色々なことが頭の中にあったのですが、今では何も思い浮かびません」
私たちはこの数年間、集団での法の暗唱を毎回2時間ほど行っています。最初に30分間正念を発し、実際に一緒に暗記するのは1時間強で、その後は少し交流をすることもあります。みんなが感じているのは、毎回の2時間の集団環境で非常に多くの恩恵を得られるということです。
私は自分に問題があることに気づきました。第一講は順調に暗唱できましたが、第二講に入るとそれほど順調ではありませんでした。振り返ってみると、第一講を覚える際、よく考えずにただ暗唱していただけのことが多く、心から理解していない状態で覚えていたのです。そうなると、副元神が暗記したものの、主元神は法を得ていなかったのではないかと思います。第二講はそんな風に流れ暗記できなくなり、師父もそれを許してくださらないようでした。それで、心から理解しながら暗記せざるを得ず、その結果、覚えるほどに心に入りました。
暗記中にある現象が起きます。例えば、1人で暗唱するときは非常に熟達しているように感じていても、皆の前で1人で暗唱すると間違えることがあるのです。そして、間違える部分やその言葉についてよく考えてみると、それが自分が正しくできていないところや、師父が悟らせて下さっている問題に結びついていることが多いのす。このような現象はほぼ毎日のように起こり、誰にでもいくつも例が挙げられると思います。時々、間違えた箇所について話し合うと、自分が長い間気づかずにいた深刻な問題や、法に則ってない考え方に気づくことがあります。
例えば「清浄心」の最初の段落について、短い文章にもかかわらず、どうしても覚えられないのです。それは自分が日常的に考え事が多すぎて、心を落ち着けられないことと関係しているのだと気づきました。
この問題において法に同化できていなかったため、「清浄心」のこの段落を覚えるのが難しくなっているのだと思います。また、以前、第六講を初めて暗唱した時、「煉功は体操と違って」という箇所を、私はつい「煉功は体操そのものであり」と言いそうになりました。このとき、自分が煉功中に気が散ってしまうことがあり、まるで体操をしているかのようになっていることを師父が教えてくださっていると理解しました。
他の例では、同修のAさんが「永遠に苦しみから解放し、解脱させることです」という部分を「永遠に苦しみから解放し、幸福を楽しむ」と暗唱してしまいました。彼女は個人で暗唱しているときにはこのように間違えたことはなかったものの、いざ皆の前で暗唱すると、このような間違いをしてしまいました。そして深く自分を探してみた結果、彼女は「大法修煉に入った当初からの根本的な執着が、自分は仏になり、将来幸福を得るためだ」ということに気づいたのです。私の姉も、第一講を覚える際に「あなたが寝ている間も、功があなたを煉っており、歩いている時も功があなたを煉っています。仕事をしている間も、功はやはりあなたを煉っています。」という部分で、どうしても「あなたが食事していても、功はあなたを煉っています」と追加してしまうのです。また、第一講の他の箇所でも「食事する」を何度も勝手に追加してしまいます。姉は幼い頃から体が弱く、1日に何度も食事をしなければならず、常に空腹感に悩まされていました。しかし、このような暗唱の間違いを正してから、自分の「食事」に対する不適切な状態に気づき、何らかの邪魔があったのではないかと意識するようになりました。そしてある日、心の中から「食事は自分のためである」という考えが突然浮かび、その過程で、別の空間で何が起きたのかは分からないものの、1日に何度も食事をしなくてもよいと感じるようになり、空腹感も消えたと言いました。
私たちはやっと気づいたのですが、法を暗唱することは執着を取り除くだけでなく、自分の深い部分にある不正確な状態を修正することもできるということです。暗唱を通して、法が心に入るようになり、法を本当に得られるようになりました。以前は、時には2講を学び終わっても何を学んだのかよく分からなかったことがありましたが、今では学び終わった後に心がとても安定し、充実した感覚があります。
もう一点、法を暗唱する際に一字も間違わず正確に覚えるかどうかで大きな違いがあります。一字も間違いなく暗唱できたとき、初めて自分の生命の微細なところや、それに対応する天体が本当に法と同化した状態になるのです。一字でも間違えている場合、それはまだ法に完全には同化できていない部分が残っていることを意味します。
(続く)