中国法会|3年以上にわたるグループでの法の暗記(二)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年12月21日】(前文に続く)

 三、法を暗唱することで私たちはより正念を持つようになる

 最初の年、法を暗唱し始めて数カ月経ったころ、二つの問題に直面しました。一つは、地元の大型の資料拠点が破壊され、カレンダーを作る人がいなくなったことです。もう一つは、同修が拘束されたことでした。私たちは何度も同修の救出を試みてきましたが、当時、現地の環境は非常に厳しく、多くの同修が強い恐怖心を抱え、互いの接触さえも控えている状況でした。また、「ゼロ化行動」という恐ろしい計画が実施されるとの噂もありました。これらの問題をどうするか、私たちは決断に迷いました。

 何もしないのは心が痛む一方、動き出すにはまだ正念が足りないと感じていました。法を暗唱する日々が続く中、同修Aさんと姉は、「私たちはこれに取り組むべきだ」と口にしました。そのとき、私自身は強い恐怖心を感じていました。「邪悪がゼロ化をしようとしている中で、わざわざ新たなリスクを招くべきなのか?」と思っていたのです。しかし、心の中で「同修の足を引っ張るわけにはいかない」と思い、言葉には出しませんでした。

 救出活動を始めた初めのころ、私たちは非常に恐れていました。拘束された同修の家に行くことさえも怖くて、家族と会うのも飲食店など公共の場を選んでいました。2年目になると、警察は様々な場所に出向いていたものの、私たちに対しては一切の妨害をしてきませんでした。

 2年目の春、拘束された同修が不当に裁判にかけられました。感染症の影響で裁判所ではなく拘置所での法廷開催となりましたが、私たちはPCR検査を受けていなかったため、傍聴に行くことは考えていませんでした。過去の救出活動では、現地の国家安全保衛大隊が私たちの動きに注目することを最も恐れていました。以前一度の救出活動の後、警察署の警官が私の家にやってきたり、国家安全保衛大隊の副隊長が私の姉の携帯電話に直接電話をかけてきたり、さらには協力していた同修が拘束される事態もありました。そのときはうちに向けて探し、師父のご加護のもと、問題を回避することができましたが、私の心には恐怖の影が残りました。

 今回の法廷の日、現地の公安局・検察院・裁判所がこの件に全く関心を持っていないように感じました。弁護士の運転手が法廷に入り、途中で出てきて中での様子を教えてくれました。「あなたたちも入ろうと思えば入れますよ。誰も何も確認してませんから。PCR検査なんて誰も気にしてないです」と。市の裁判所と検察院の人たちのみ来ているようでした。その場の雰囲気は、まるで邪悪が消えたかのようで、前年の年末に弁護士と一緒に地方検察院に行き書類を閲覧した際とは全く違う空気でした。当時は、生死を放下してやっと勇気を奮い立たせることができましたが、今回は環境そのものが知らず知らずのうちに変わっていたのです。

 同修Aさんも以前は、法を実証するのにただ皆と一緒にやっていたようで、連行されてもどこで問題が発生したのかも分からない状態だったと言っています。法を暗唱し始めてからは、行動に正念と自分の意識が伴うようになり、安心感を持って進められるようになったと言いました。

 私自身も、大法の要求に従って最善を尽くすことが重要だと痛感しました。例え目の前に壁があり、これ以上進めないと感じても、法が進むことを求めているなら、あらゆる考えを捨てて一歩を踏み出すべきだと思いました。その過程で、壁が消え、逆にさらに広い道が見えてくるのを体感しました。

 以前の同修の救出や病業に苦しむ同修への支援では、多くの場合後に困難が訪れてきました。その原因は、法が心に深く入っておらず、人間の熱意と大法への純粋な気持ちだけで動いていたからでした。そのため、物事が起きたとき、うちに向けて探すことができませんでした。

 法を集団で暗唱するようになってから、明らかな変化がありました。以前、私の家の周辺には私を監視するために人が配置されていましたが、このような状況もいつの間にかなくなり、環境は以前よりも良くなったのです。

 四、集団での学法環境を守り続ける

 集団での学法は、師父が私たちに残してくださった形式です。私たち3人は法を暗唱し始めた際、暗黙の了解として「どのようなことが起こっても、この学法グループを続ける」と決めていました。これも、大法がこの世に存在する形式を守ることです。そのため、感染症の状況が厳しい時期でも、街中でPCR検査をしていたり、赤い腕章をつけた人々が通行人を止めていたりする中でも、私たちの集団学法は一度も途絶えることはありませんでした。

 同修Aさんは、この間非常に多くの代価を支払いました。時には、私の姉の店にお客がいたり、私自身が仕事で急な対応を迫られたりして、同修Aさんが学法できず帰ることもありました。それでも、彼女は一度も不満を言うことなく、怠けることもありませんでした。日々学法を続ける中で、私たちは互いの心性を向上させながら、どのような状況下でも、この集団学法を揺るがすものは何もないと確信していました。

 私たちの地域には長年、複雑な状況が存在していました。私たちが一緒に学法を始める前は、同修同士が率直に意見を交わしたり、お互いの問題を指摘し合う環境や正の場がありませんでした。それは、「陰口を言われるのではないか」「孤立させられるのではないか」「面倒ごとを招くのではないか」と恐れる心があったからです。

 しかし、法の暗唱を始めてからは、お互いに率直に向き合い、何でもはっきり話すようになり、ネガティブなものが生まれることはなく、むしろ長年解決できなかった家庭の問題やその他の課題が完全に解決しました。一年余後には、他の同修が私たちの集団学法に参加するようになり、その後も参加者が増え続け、一部の同修が分かれて新しいグループを作ることもありました。参加人数に関わらず、私たちの雰囲気は率直で透明であり、誰も人情にこだわるようなことをしませんでした。また、互いの間で物質的なやり取りを控えることで、関係をより純粋なものにし、環境をさらに純粋にすることができました。大法に人間的なものを混ぜ込まず、大法の純粋さを守るためです。

 法を集団で暗唱する過程では、師父の秩序だった手配をしばしば感じることがありました。例えば、法の暗唱を通じて数人が同じ問題を抱えていることが判明し、その問題を正す決意を固めると、まさにその問題に関する交流文章が明慧ネットに複数掲載されているのを見つけることができました。同修たちとその交流文を読んで深く感動し、師父が私たちにその時期に課題として与えてくださったのは類似する問題だったことを理解しました。私たち全員に一緒に進められる修煉の進展があるように感じました。

 現在、この純粋で率直な場は、周囲の同修たちの間にさらに広がっています。法を暗唱する同修もどんどん増え、着実に修め、心性を修める場が大きく広がっていっています。資料拠点もより独立した状態になっています。一方、真相を伝える活動はまだ強化が必要ですが、以前に比べると多くの同修が人を救うことに対する焦りを抱き、より積極的に行動するようになっています。

 五、集団学法に参加していない同修に伝えたいこと

 師父は『米国西部法会での説法』で、「皆さんに教えますが、ビデオを見ること、集団で法を学び煉功すること、更に今日開かれている法会のことは私が皆さんに残した大法修煉の唯一の形式です」とおっしゃっています。

 私たち現地の農村部では、多くのところで学法グループが維持されておらず、数年間も集団学法がありません。これまで恐れの心で集団学法に参加できていない同修と交流したいと思います。

 師父を信じるというのは、師父がおっしゃった通りに行うことです。たとえ妨害が現れても、それはすべて虚像だと分かっており、ただ師父のおっしゃった通りに行えば、私たちは必ず最も安全です。なぜなら、この宇宙のすべては師父が決めておられるからです。私たちが本当にこの一念を堅持できれば、虚像はすべて消え去るでしょう。そして、周囲の環境がより良くなっていることに気づくはずです。

 私たちの周辺のある農村地域では、2005年ころから集団学法を始めました。同修たちは毎晩グループで学法に出かけていましたが、通りには涼を取るために座っている常人も多くいました。人々は同修に「どこへ行くんですか?」と聞くと、同修たちは「学法に行きます」と答えました。それ以来、再び通る時人々は、「学法に行くの?」とか、「今日は学法に行ってないの?」と挨拶するようになりました。それは日常的な挨拶の一部となっていたのです。そこの村の幹部もかつては大法弟子の迫害に加担し、壁を乗り越えて家を離れざるをえなかった同修の家に押し入り、同修を探したことがありました。しかし、同修たちが集団学法を堅持した後、環境は変わりました。

 いわゆる「敏感日」になるたびに、村の幹部は直接学法の場所に来て、窓の外から中を覗きます。一目見て、同修たちが皆学法をしているのを確認すると、安心して「うん、みんなここで学法しているんだな」と言って、そのまま去って行きました。その地域の良い環境は、きっと同修たちが集団学法を通じて切り開いたものなのでしょう。

 私はこう理解しています。私たちの集団学法は、地域の同修たちの修煉向上の保障であるだけでなく、現地の衆生にとっての福でもあります。私たちがよく修めればこそ、地域の衆生に希望がもたらされるのです。そのため、集団学法はすべての生命の分かっている一面が妨害したくないことだと思います。私たちが大法の世間における形式にふさわしい位置を与えることができれば、衆生もこの件について正しい態度で接してくれることでしょう。

 確かに明慧ネットで、集団学法が原因で同修が拘束された事例を目にすることがあります。しかし、それらの問題はすべて何らかの原因があると私は考えます。集団学法は非常に厳粛なものであり、正しく行うべきです。例えば、長期間学法に集中できない、口では読んでいても心に入っていない、学法の際におしゃべりする、同修間の心性の関を乗り越えられず、隔たりができている、または人間的な情を持ち込み、大法にふさわしくない行為、たとえば、一緒に食事をしたり飲み会を開いたりするなどをしていると、それらがすべて邪悪に隙に乗じられる要因になり得ます。私たちが正しく行えば、誰も手出しすることはできません。

 また、自分たちが方向を間違えるのではないかという不安を持つ必要はありません。私は、もし私たちが学法を形式的に行うのではなく、たとえ集団で通読する場合でも暗唱する場合でも、本当に法を心に入れて行えば、私たちの行いに間違いがあれば、師父が必ず啓発してくださると感じます。それは同修の言葉を借りてだったり、常人の言葉を借りてだったり、あるいは生活の中で直面する不都合な出来事を通してかもしれません。それらはすべて、師父が私たちに気づかせ、正しい方向に戻るよう促してくださることかもしれません。

 さらに、集団学法が続かない理由として、参加する同修が積極的ではなく、参加に消極的であることが挙げられています。この問題について、師父は『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』の中で、「弟子:(訳文)私はトルコの大法弟子です。一部の古い弟子は集団学法と大法のプロジェクトに参加していません。私たちはどのように一つの全体を成すのでしょうか? 師父:実は、ヨーロッパの責任者に話したことがあります。大法弟子が迫害された初期、ヨーロッパは大きな作用を働き、反迫害の力が非常に強かったのです。皆さんの心は本当に一丸になっていましたが、後で徐々にばらばらになってしまいました。ヨーロッパの責任者に、皆さんが真面目に修煉に取り組み、本当に大法弟子らしくならないといけないと話しました。修煉に力を入れなければ、皆ばらばらになって離れてしまいます。形式的に集めても、何かを行うとき常人が集まって行なっているのと何の違いもなく、彼らを引き止めることができません。なぜならば、生命は法を得るため、修煉を得るために来たのですが、後天的な観念が法を得ることと前進することに影響しています。本人はこれらのことに気付くことができませんが、古い学習者は必ず法から彼らを導くべきです」と説いておられます。

 私はこの3年以上の集団学法を通して、学法と心を修めることを結びつければ、同修たちは集団学法を通じて自分の向上を感じ、進んで参加するようになると感じています。私たちのグループでは、ほとんどの同修が自分の執着を発見し、それを克服することで家庭環境を改善し、長い間解決できなかった難題を解決しました。

 また、どのような状況に直面しても、内に向けて探せば物事が解決するということが分かりました。このため、皆が積極的に学法や法の暗唱に参加しています。グループの人数がすでに多い場合でも、さらに同修が「私たちも参加していいですか」と相談してくることがあります。その後分けられたグループでも皆が着実に修め、ますます多くの同修が集団学法や交流、着実に修めるメリットを実感しています。同修たちの言葉を借りれば、「甘い汁を吸った」と言えます。そのため、集団学法を主導する同修は、自身の修煉にさらに努力を注ぎ、自分から実践し始め、物事に直面したときに内に向かって探し、着実に修めるべきです。それによって、より多くの同修が学法に参加するようになるでしょう。

 私たち全員がさらに精進し、より良く行えるようになり、師父のご心労を少しでも減らし、少しでも安心していただけるよう願っています。 師父、ありがとうございます!

 (完)

 
翻訳原文(中国語): https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/7/484397.html
 
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