【伝統文化】 内助の功を遂げた長孫皇后
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 【明慧日本2025年3月14日】西暦601年に生まれた長孫皇后(ちょうそんこうごう)は唐の太宗・李世民(りせいみん)の皇后であり、幼名は「観音(かんのんひ)」といいます。李世民とのあいだに三男四女を生んで、唐の名臣・長孫無忌(ちょうそんむき)を実兄に持っています。長孫皇后の父親は隋王朝の将軍・長孫晟で、母方の家族も高い地位を持っており、南北朝の皇族である高氏の血を引いています。観音は幼い頃から厳格な教育を受け、学問と礼儀を知り、賢良、正直、善良な性格を身につけました。幼い頃、占い師に「大地を支え、徳は限りなく、高い地位に登り、その高貴さは計り知れない」と言われました。

 13歳で、当時太原を守る李淵の次男で17歳の李世民に嫁ぎました。若いながらも妻としての道を全うし、義理の両親に孝行を尽くし夫を支え子を育てて、非常に立派な嫁でした。

 李世民は若くして才能があり、文武に秀でていました。18歳で敵陣に単騎で突入し、包囲された父を救出したことがあります。20歳で王者の風格があり、天下の英雄を広く招き入れました。21歳で父の李淵と共に太原で蜂起し、自ら大軍を率いて隋の首都・長安を攻め落として、李淵は唐王朝を建て初代の皇帝になりました。李世民は秦王に封じられ、数年で中原の各軍事勢力を平定し、唐の統一を成し遂げました。その功績で、李世民は他の大臣と武将を上回る「天策上将」に昇進しました。李世民が各地に戦いを繰り広げている間、長孫王妃は常に夫のそばで支え生活の世話をし、李世民が戦いに集中できるように努めました。

 李淵には四人の息子がおり、李建成、李世民、李元吉、李元霸です。建成と元吉は李淵の妾(めかけ)と密通しており、秦王に目撃されたことがあります。その後、表面上は事が収まったものの、心の底では建成と元吉は世民を恨んでいました。本来、李淵が亡くなった後は長男の建成が後を継ぎますが、非凡な功績を成し遂げた李世民は李淵にしばしば称賛され、建成と元吉はこれに強く嫉妬していました。長い間皇位を狙っていた元吉は、建成を利用してまず世民を殺し、次に建成を殺せば自分が皇帝になれると企んでいました。李世民に対する二度の暗殺計画がいずれも失敗に終わって、切迫詰まった世民は仕方なく建成と元吉の密通を李淵に報告しました。翌日、建成と元吉は兵士を率いて宮廷の玄武門で世民を暗殺しようとし、既に準備万端で鎧を身につけて現れた世民と部下は建成と元吉を矢で射殺しました。この事件は「玄武門の変」として歴史に名を残しています。

 その後、李渊は世民に帝位を譲り、世民は唐の太宗となり、王妃だった観音は長孫皇后となりました。皇后になった後も、長孫氏は以前と変わらず謙虚、節約を美徳として保ち続け、高齢の上皇・李渊に対しては非常に尊敬し、毎朝毎晩の挨拶を欠かさずにしました。後宮の側室たちに対しても、長孫皇后は優しく接し、自らの品格で後宮全体に良い影響を与え、太宗が後宮の紛争に惑わされることなく、国の重要事に集中できる環境を作り出しました。名家の出身でありながら、長孫皇后は常に節約と質素な生活を心がけ、衣服や日用品に派手さを求めず、食事や宴会も控えめであったため、後宮にもそのような質素な風潮が広がりました。

 太宗は長孫皇后を尊敬し、国の重大な事から細かいことまで皇后と相談することが多かったです。皇后は見識があるものの、自分の特殊な身分で国の大事に介入することを望まなくて意見を控えていたのですが、太宗の再三の要請に応じて、ただ「安住しても危険を忘れず、賢者を任用し、意見を受け入れる」という大きい原則を述べて、細かい提案まで言わなかったのです。太宗に具体的な事を大臣たちに聞いてほしくて、太宗の大臣たちを長孫皇后は深く信頼していたからです。

 太宗は、良妻から教わった「安住しても危険を忘れず」と「賢者を任用し、意見を受け入れる」の二つの教えを深く心に刻みました。当時、平和な時勢に慣れ馴染んで多くの武将が武術の訓練を怠りがちで、太宗は公務の合間を縫って武官たちを集め、射撃の練習を行わせました。近くにこれだけ多くの人が武器を持つことは皇帝の安全に不利だと太宗に忠告する声もありますが、太宗は「私は誠心誠意で皆さんに接しているので、身近な人たちを疑う必要がありません」と答えました。部下を疑わない彼は、文武の臣下から強く擁護され、その結果、部下たちは自らを奮い立たせ、怠ることなく、国は長期にわたり強い軍隊を維持し、外敵の侵入を全く恐れません。太宗の治世を「貞観の治(じょうがんのち)」と称され、後世に理想の政治が行われた時代と評価されました。

 魏徴(ぎちょう)は諫議大夫(かんぎたいふ)の職に就いています。諫議大夫とは、政治の得失を論じ天子をいさめるのを任務とする官職です。魏徴は、面と向かって直言する勇気のある人物でした。彼は太宗の不適切な行動や政策を指摘し、改善を強く勧めて、太宗は彼を非常に尊敬しました。しかし、時には魏徴は細かいことも見逃さずに指摘して、太宗の面子を失わせることもありました。ある日、太宗は突然狩猟に出かけることを決め、多くの護衛と近臣を連れて郊外へ向かおうとしました。宮門を出る際、魏徴に出くわしました。魏徴が状況を聞いた後、太宗に「今は春の真ん中で、万物が生まれ育ち、動物が子育てをしている時期ですので、狩猟は適していません。どうか宮殿に戻ってください」と進言しました。唐太宗は執拗に出かけようとしましたが、魏徴は妥協せず、道を塞いで太宗の進路を阻止しました。太宗は馬から降りて宮殿に戻ったのですが、怒りを抑えきれずにいました。

 太宗が宮殿に戻って長孫皇后に会うと、「魏徴を殺さないと、私の怒りは収まりません」と言いました。皇后は事情を聞いた後、何も言わずに部屋に戻り、暫くしてから、正式の儀式にしか着ない朝服(ちょうふく)を着て太宗の前に現れ、厳かに頭を下げて叩頭しました。太宗は驚いて、皇后は「陛下、お祝い申し上げます。賢明な主君にしか直言できる臣下がいないものです。今、魏徴が直言していることから、陛下の賢明さが分かります。そのため、お祝いを申し上げたのです」と答えました。太宗はこれを聞いて納得し、皇后の言葉に感じ入りました。そうして不快は消えて、魏徴への恨みもなくなりました。

 長孫皇后と太宗のあいだに生まれた長男・李承乾は幼い頃から太子として立てられ、乳母の遂安夫人が太子の生活支度を管理していました。宮中では節約が徹底されており、太子のところも例外ではなく、予算は限られていました。遂安夫人は長孫皇后によく不満を言い、予算の増加を求めました。皇后は自分の息子であっても甘やかさず、「太子として、美徳と美名を持たないことは一番の心配ごとですが、物資の不足は問題ではありません」と言って却下しました。その公平さと賢明さは宮中の人々から高く評価され、皆が皇后の指示に従いました。

 長孫無忌は皇后の実兄で、文武に秀でており、若い頃から太宗とは親友で、太宗の天下取りのために戦いを繰り広げて、大きな功績を残しました。本来であれば高い地位に就くべきでしたが、嫌疑を避けるために控えめな行動を取りました。太宗は最初、長孫無忌を総理にしようと考えていましたが、皇后は「私が皇宮にいる以上、兄弟が朝廷に並ぶことを望みません。漢の呂稚(りょち)皇后の例を前にして、兄を総理にしないでほしい」と請願しました。呂稚はその嫉妬と残酷さで歴史に名を残した女性です。呂稚は漢高祖・劉邦の皇后で、劉邦の死後、彼女は実家の呂氏一族を重役に立て、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺しました。

 その後、太宗にまた別の高い官職を授けられ、長孫無忌自身も妹の立場を気にして、高位に就くことを望まなくて、「外戚として高官に就くことは、人々が皇帝を私情で動かされていると言う恐れがあります」と辞退しようとしました。太宗は「官を選ぶ基準は才能のみです。才能がなければ親族であっても使わず、才能があれば敵であっても避けません。今回の決定は私情によるものではありません」と述べ、長孫無忌は最終的にそれを受け入れました。この兄妹ともに清廉で高潔な人物でした。

 長楽公主は太宗と長孫皇后のあいだの愛娘で、幼い頃から大切に育てられました。結婚する際、両親にわがままを言って、自分の持参金は太宗の姉である永嘉長公主のそれの倍にするよう要求しました。永嘉長公主の結婚は唐の創業期で、持参金は比較的質素だったのに対し、長楽公主の結婚は国が安定し繁栄する時期でしたので、持参金を増やすこと自体は不当ではありませんでした。しかし、この話を聞いた魏徴は、それが長幼の序を乱し、規則に反するとして、太宗に諫めました。太宗は最初はその意見をあまり気に留めなくて、後に長孫皇后にその話をしたところ、皇后は魏徴の意見を高く評価し、太宗に従うよう勧めました。その結果、長楽公主はそれほど豪華ではない持参金を持って結婚しました。

 その後、長孫皇后は魏徴に絹と銭を贈り、彼の正直さを称え、その心を変えないようにと伝えました。魏徴は皇后からの支持を受け、国のために一層尽力しました。魏徴のような忠実な諫臣(かんしん)がいたおかげで、太宗は多くの過ちを避け、賢明な君主となりました。実は、その背後には長孫皇后の貢献もあったのです。

 貞観8年(西暦634年)、長孫皇后は太宗と共に九成宮を訪れた際、帰路で風邪をひき、以前からの持病が悪化し、病状は日増しに重くなりました。皇太子の承乾は、囚人を赦免することで母の健康を祈ると提案し、これには、皇后の高徳を讃える群臣が賛同し、正直な魏徴でさえ反対しなかったのですが、長孫皇后自身は強く拒否しました。「生死、貧富は運命によって定められるもので、人力では変えられません。もし善行したら寿命を延ばせるなら、私は以前から悪いことはしていません。善行しても無駄ならば、福を求めてどこに意味があるのですか。囚人を赦すことは国の大事であり、私一人のために国の秩序を乱すべきではありません」と言いました。長孫皇后は常に大局を見ており、自分のために国の事を犠牲にすることを決してしません。これを聞いた人々は皆、感動して涙を流し、太宗もやむなく皇后の意向に従いました。

 皇后の病気は2年間続き、貞観10年の盛夏に亡くなり、享年わずか36歳でした。皇后は最期に、まだ太宗に賢臣を大切にし、外戚を重要な地位に就けることを避けるようにと願い、自身の葬儀は簡素にするようにと求めました。

 太宗は昭陵(しょうりょう)を建て、その中には特別に楼閣を建てて、皇后の魂がそれを登っていつでも高く遠くを見渡せることを望んでいました。太宗は、その方法で愛妻への尊敬と追悼の気持ちを表しています。太宗の死後も昭陵に埋葬されました。

 長孫皇后は、その賢明で無私の品格により太宗や宮廷内外の人々の尊敬を得て、後世に賢妻良后の模範とされました。彼女の死後、太宗は皇后をたてず、その陵墓をいつも眺めていたといわれます。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2006/8/9/135106.html
 
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