【明慧日本2025年3月19日】(前文に続く)
2003年9月5日、商さんと他の法輪功学習者(以下、学習者)たちは奴隷労働を拒否したため、黒龍江省女子刑務所の刑務長である王興、褚淑華、四大科室の刑務政務、刑務捜査、防暴大隊の肖林、王亮、八監区の大隊長である鄭杰、張春華、張秀麗、受刑者サービス大隊、刑務官らは、監区の受刑者らと共に学習者に「チェン」と呼ばれる迫害を行った。刑務官と受刑者らは円を作り、各々が殴打用の刑具を手に持ち、小白龍(細いゴム製の棒)、木の棒、木の枝、電撃棒、警棒、手錠などを使って学習者を無理に円の中央で走らせた。走っている間に誰かが近づくと、その部位に構わず手に持った刑具で殴打され、どれも逃れられなかった。
商さんは張秀麗隊長に耳を電気ショックで攻撃され、受刑者に背中を木の枝で打たれた。昼食後、元の場所で日光浴をさせられ、午後も再び走らされ、この日の間、水を飲むことは許されず、昼には一度だけトイレに行くことを許可された。午後、刑務官が勤務を終えて学習者たちを監房に連れて帰り、水を少し与え、トイレに行かせた。その後、両足をロープで縛り、両手を背中に回してロープで縛り、湿ったコンクリートの上に座らせた。食事は受刑者から与えられた。夜は寝ることを許されず、トイレにも行けなかった。誰かが目を閉じると殴られた(受刑者は4時間ごとに交代)。竹の棒で顔や頭、体を打たれた。受刑者らは人を打つ時、容赦なく、まるで狂ったかのように暴力を振るい、後のことなど考えずに暴行を加えた。
多くの学習者の顔は殴られて黒くなり、変形し、皮膚が裂けていた。数日後、拷問を受けた学習者たちはもはや人間らしさを失い、目を閉じて眠りたくてたまらず、たとえ1分間でも良かった。しかし、そのような機会も与えられなかった。受刑者らは殴るのに疲れてしまい、誰かが目を閉じると商さんを打った。なぜなら商さんは監視役の受刑者の近くに座っていたからであった。翌朝、足に縛られていたロープは解かれたが、手のロープは解かれず、受刑者に連れられてトイレに行き、受刑者がズボンを下ろすのを手つだった。その後、洗顔も許されず、戻った後、再び縛られて座らされた。朝食は受刑者が持ってきた饅頭を商さんが数口かじり、塩漬け野菜を2本もらって終わりだった。刑務官が勤務を始めると、再び訓練場所(誰かが屠殺場と呼んでいた)に連れて行かれた。中には拷問で精神が錯乱し、まともに話せなくなった学習者もいた。
東寧県の学習者・王淑玲さんは地面に座って動かず、「地面にご飯があるから、私は寝る」と言った。すると受刑者の趙艷が近づき、壁を叩きながら王淑玲さんに「これは何?」と尋ねた。王淑玲さんは「天」と答えた。趙艷は自分を指差して「私のこと、知っているか?」と尋ねた。王淑玲さんは「知らない」と答えると、趙艷は趙さんに冷水をかけ始め、「寝たいか?」と聞いた。王淑玲さんが「寝たい」と答えると、趙艷は転向の書類を持ってきて、王淑玲さんにその書類にサインさせ、その後王淑玲さんは寝ることができた。中には学習者が意識を失うこともあった。
双城市の学習者・安玲さんは足が痛くて走れなくなった。刑務所の医者は「治してあげる」と言って、長い針で安玲さんの足の裏に刺した。安玲さんは痛みで悲鳴を上げたが、それから足の痛みを訴える勇気がなくなかった。夜になると、受刑者の王鳳春と楊平が工場から持ち込んだ針を使って、学習者の足の甲に刺しながら「まだ修煉するか?」と尋ねた。刺された学習者は、動きもせず、声を出さなかった。
「訓練」と言う名で拷問を受けた学習者たちは、11日間にわたり酷く苦しみ、見るに耐えない状態となった。その間、商さんは伊春さん、賈淑英さんなどの学習者と共に、受刑者の朱玉紅と李桂紅が倪淑珍老人に耳打ちをしているのを止めようとした。商さんは受刑者の李桂紅に喉を激しく蹴られ、「ううう」という弱い声を出した後、意識を失った。その後、しばらくして張大隊が来て、受刑者に商さんを運ぶよう指示した。どれくらいの時間が経ったのか分からないが、商さんはようやく目を覚ました。「訓練」の拷問が終わった後、商さんの両足の大きな爪が剥がれ落ちた。湿ったコンクリートの上に座り続けたため、商さんの体全体に疥癬が広がり、痒みが酷くて夜も眠れないほどだった。
2004年2月、商さんは迫害に反対して囚人服を着ることを拒否したため、悪徳刑務官の張春華が受刑者の趙艷華、宋麗波、朱玉紅らを引き連れて、商さんの服をすべて脱がせ、囚人服の上着だけを着せた後、「大背剣」(これは非常に残虐な拷問で、数分で窒息する)を受け、昏迷状態になるまで続けられた。その後、人中を掐まれて意識を取り戻し、強制的に薬を飲まされ、ずっと手を後ろに回して手錠を掛けられていた。大背剣とは、一方の手を後ろに回して手錠をかけ、もう一方の手を肩から回して後ろで手錠をかけ、その手錠の鎖を上下の寝台の上の横に通して、足の先がかろうじて地面につく状態にする拷問である。ある時、商さんはこの拷問を一晩中受け、その翌朝、尹平刑務官は「あいつは本当に根性がある」と言った。大背剣は胸を圧迫し、心臓や肺を圧迫して呼吸困難を引き起こし、窒息状態になる。
2004年12月のある夜、受刑者らは仕事を終えた後、学習者たちを監房の廊下のコンクリートの上に座らせ、窓を開けて学習者たちを凍えさせた。座り続けさせられたのは翌朝までで、その間、ベッドで寝ることは許されず、20日間も地面に座らされていた。学習者たちがようやくベッドで休むことができるとき、誰もが足が痛み、足の裏がまるで唐辛子を塗られたかのようにひどく痛んだ。
黒竜江省女子刑務所では、転向しない学習者はスーパーに行けず、電話もかけられず、家族との面会も許されず、他の監房に行くこともできず、同室の人とも話すことができなかった。トイレに行く際には、5人1組で監視者がついて行った。商さんはまた、刑務官や受刑者らにズボンを引き下ろされ、木の板やプラスチックの靴底で冷たい水をつけて臀部を激しく打たれるという暴行を受けた。
黒竜江省女子刑務所では、迫害を止めるために学習者たちが断食して抗議したが、その結果、強制的に管挿入されていた。受刑者らが監房に入り、胃管を手にし、学習者を地面に押さえつけ、鼻孔から管を挿入して胃に通し、その後、注射器で薄めた粉ミルクを吸い上げて注入していた。粉ミルクの上には白い塩水が浮いており、この強制的な管挿入は1日3回行われ、28日間続けられていた。毎回の管挿入は生死の境を意味していた。その痛みは常人には耐え難いものであった。食道にさらに大きな傷を与えるために、挿入用の管の丸い先端を切り、摩擦を強めて刺激を増加させていた。
2011年11月、商さんは寧安市610オフィスの責任者である閻和成を訪ね、法輪功迫害の事実を伝えた(その地域で法輪功学習者が洗脳班に連行されていたため)。商さんは法輪功が人々に良いことを教え、家庭の和睦を促し、道徳の回復を助け、身体の健康を促進することを説明した。しかし、その責任者は寧安公安局と牡丹江公安局の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)と共謀し、悪行を働いた。
同月28日、商さんは勤務中に牡丹江国保と寧安国保に連行され、牡丹江拘置所に拘禁された。家族は彼女の行方が分からず、寧安国保、寧安市610、派出所に尋ねても、情報は提供されなかった。商さんは不当に労働教養を受けた。2013年1月、黒竜江女子薬物依存症矯正労働教養所に収容されていた商さんは強制的に隔離され、監視されていた。そこで昼間、鉄の扉と鉄の柵がある部屋に閉じ込められ、強制労働され、クッションを使うことは許されなかった。部屋には時計がなく、時間も分からなかった。食堂での食事も許されず、毎日午前、午後、夜間には刑務官による思想改造が行われ、精神的な圧力は非常に大きかった。強制隔離が1カ月続いた後、悪徳刑務官の路博雅と監視役の巴麗華が商さんの手を強引に引っ張り、転向文書に指印を押印を強要されたが、商さんは必死に抵抗した。商さんの手が腫れるほど引っ張られた。強制転向と隔離、そして精神的な圧力により、商さんは胸が圧迫されて息ができなくなった。
長期間の拘禁と迫害により、商さんの髪の90%が白くなり、歯がすべて揺れ、前歯が抜け落ちた。
2024年5月9日、商さんを含む18人の寧安市の法輪功学習者が寧安市公安局国保の警官らに連行され、それぞれが寧安市拘置所や留置場に不当に収容された。商さんは海林市検察庁から不当に起訴され、海林裁判所で不当に懲役3年6カ月の判決を言い渡された。
(注:法輪功学習者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)