【明慧日本2025年5月15日】最近、私は世の中の親を悲しませる三つの出来事に遭遇しました。
一つ目は、高校生の息子がいる家庭です。成績が良くなく、旧正月に家にいる間はずっとスマホをいじってばかりしていました。それを母親が注意したところ、息子は不機嫌になり、怒りのあまり、なんと母親を平手打ちして家を出て行き、それ以来母親に会うことも電話を取ることも拒んでいます。
二つ目は、両親はすでに定年退職していましたが、娘の将来のためにもう少し稼ごうとして、両親ともアルバイトしている家庭です。娘は小さい時から溺愛され、家の仕事を一切させられたことなく、大学を卒業後、南の地方で働いています。娘は、親戚や友人からは良い子と見られています。今年の旧正月、娘は家に帰省した時、母親は新型コロナに感染して重い後遺症でうつ病を患っていました。ある日、両親が家事をしない娘を少し叱ったところ、娘は怒ってその日に飛行機に乗って仕事先の都市に戻り、両親は二人きりで旧正月を迎えることになりました。
三つ目は、離婚した後、女手一つで娘を育てた家庭です。高校生の時、良い教育を受けさせるために、母親は苦労して娘を海外の学校に送り、娘は努力を重ね、海外の有名大学に合格しました。昨年、学校で恋人を見つけ、すぐに結婚することを決めましたが、母親は娘がそんなに早く結婚することに反対し、大学院を卒業してから結婚を考えるようにと望みました。母親の反対を知った後、多くの人が娘に、親の言うことは聞かず、結婚は自分で決めることだと助言しました。それを聞いて、娘は結婚は自分のことであり、親には関係ないとさらに思うようになりました。やがて娘は自分で婚姻届けを出し、その後も母親に一言も告げませんでした。
親孝行を重んじる中国古代では、上記三つの例の中の子どもたちは、どのような罰を受けるのでしょうか。
唐およびそれ以前の法律
唐王朝以前の時代において、文献記録によれば、親不孝の罪はずっと重罪とされていました。中国最初の王朝、今から4000年前から存在した夏王朝の法律に「五刑」があり、「五刑の中で三千に及ぶものはあるが、不孝ほどの大罪はない」とされています。その後の商王朝も、周王朝も、文献に「刑罰は三百あり、その中で最も重い罪は不孝である」、「最も大きな悪は不孝と不友愛だ。……速やかに文王が定めた刑罰を用い、これらの人々を罰し、決して許してはならない」と記されています。不孝の罪を犯した人だけでなく、他人を不孝に導く者も厳しく罰されます。漢王朝には「他人を不孝に導く者は、顔に文字を刻まれ、重労働を強いられる」と規定しており、これは死刑に次ぐ重い刑罰です。
『唐律』には「十悪」(じゅうあく)の罪があります。それは反乱、大逆、叛乱、悪逆、不道、大不敬、不孝、不睦、不義、内乱です。中にある「悪逆」、「不孝」、「不睦」は、孝行に関連する行為です。
不孝の行為は、祖父母や両親を罵り呪うこと、祖父母や両親が生存している間に別の戸籍と財産を持ち、扶養に不足があること、両親の喪中に結婚もしくは遊楽し、もしくは喪服を解いて吉事に参加すること、祖父母や両親の死を知りながら悲しまず、その死を隠匿し葬式を行わないこと、などとされています。「祖父母や両親を罵る者は絞首刑(こうしゅけい)、殴る者は斬首刑(ざんしゅけい)にし、過失で殺した者は三千里外に追放、怪我させた者は三年の懲役」とされています。
唐王朝以降の元、明、清の各王朝も、不孝の罪の定義と処罰は『唐律』を基にしており、両親を侮辱し殴打する行為はいずれも死罪とされています。これは、十悪の罪を犯した人は天によって許されないということで、一般に「十悪、容赦なし」と言われる理由です。
母親を殴打した事件は全国を驚かせた
清の同治五年(1866年)、現在の湖北省にあたる漢川で、鄭漢禎とその妻・黄氏が母親を共に殴打し、近隣住民によって地方の役所に訴えられました。その時たまたま、湖広総督(ここうそうとく。湖北と湖南を管轄する地方最高長官で、広東広西は含まれていない)が漢川を巡察中で、直ちに夫婦二人を逮捕して、朝廷に報告しました。すぐに漢川県に聖旨(せいし、皇帝が自ら出した命令)が届き、この夫婦の反逆行為および関係者に対して以下のような厳しい処罰を下しました。
鄭漢禎とその妻・黄氏に「皮剥ぎの刑」
「皮剥ぎの刑」はとても残虐な刑です。犯人の頭の頭皮を切って、中に少しずつ水銀を注入することで、丸ごと一枚の人体の皮を剥ぐことができます。水銀を注入される数日の間、犯人はゆっくりと死にますので、その過程は苦痛を極めるものです。そして、皮に草を詰めて縫って人体の形状にし、隣の県まで街頭で展示し、親不孝の者の結末を明示し民を教化します。皮を剥がれた後の胴体は焼かれて、その灰を風に散乱させ、形さえ残しません。「皮剥ぎの刑」のもう一説は、犯人の背中を刃物で割いて、少しずつ胴体と四肢の皮を剥ぐやり方です。いずれにして、皮に草を詰めて縫い人体の形状にするのは同じです。
・叔と漢禎の従兄弟三人は絞首刑(漢禎の父はすでに死亡)
・族長は絞首刑
・通報しなかった隣人らはそれぞれ80回の杖責(じょうせき)を受け、烏龍江に追放、(杖責とは昔の刑罰の一種で、罪人を杖で打つ刑のこと)
・漢禎の勤め先の長は80回の杖責
・府知事と県知事は民を良く教化できなかったため、職を剥奪され庶民に
・黄氏の母親は顔に「養女不教」(娘を養育したが良く教育しなかった)の四文字を刻んで、七つの省を巡って街頭で展示
・黄氏の父親は、80回の杖責を受け、三千里外に追放
・鄭漢禎の子はまだ生後9カ月で、漢川県署によって養育され、「学善」に改名
・漢禎の母・陳氏は、官署より毎日米一升と銀一銭を受け取る
・漢禎の家の土地は荒れ放題
聖旨にまた湖広総督に、「この事件と処罰結果を記録して湖広の各省で配布し、今後、親に反逆行為がある者がいれば、それによって処罰する」と命じています。聖旨は当時、湖広の各省に広められたため、この事件はすぐに全国で話題となりました。
この事件では、息子が長い間母親を敬わず、最終的に嫁と一緒に母親を殴打したことで、合わせて6人が死刑にされ、府知事と県知事の2人が職を失い、多くの人が杖責や流刑に処されました。現代人から見ると、処罰は極端すぎて理解し難いものですが、清王朝以前の中国の歴代とも、不孝を重大な罪として処罰し、最低でも死刑が科されるものでした。
歴代にわたり、不孝の罪はまず赦免されることはなく、大臣、総理ないし皇帝であっても罰を受けなければなりません。中国の2番目の王朝・商王朝の4代目の皇帝・太甲(たいこう)は、即位して3年後に先祖の法令(不孝を含む)を守らなくなり、総理である伊尹(いいん)によって追放されました。門を閉じて3年余り反省した後に悔悟した太甲は、やっと再び宮中に迎えられました。これは有名な「伊尹による太甲の放逐」事件で、凡そ3600年前のことです。
(続く)