日本明慧
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学法し、心を修める中で精進する(一) 文/中国遼寧省の大法弟子 私は1997年に大法の修煉を始めました。1999年7.20以前、大法に対する認識は感性的なもので、1999年7.20以降には、人間の熱情と勇気に頼って仕事をしていました。その間、私はずっと修煉の道で転んだりし、何度も迫害され、不当に労働教養を科されたり、拘留されたりしました。今年の年始には、また半月間不当に拘留され、さらにパソコンの本体を没収されました。家族は私が不当に監禁されている間、パソコンの本体を取り戻しました。私は帰宅した後、本体の外観をチェックし、なんの異常も見当たらなかったため、ハードディスクを全部フォーマットしたうえで、新しくシステムをインストールしました。1、2日後、同修の間では、邪悪がかげで手を回すことを心配して、私にパソコンを使ってはいけない、換えるべきだと言う同修がいました。私は言われたとおりしたくなかったですが、安全面から考えて、やはり本体を換えました。数日後、私のパソコンの本体はまったく変わっていないという同修がいました。また、私とメールのやりとりをしたら、非常に危ないと言い、ウィルスに感染されるという噂もありました。こうして、一部の同修は私と連絡することをやめ、一部は明慧ネット内のメールボックスを使うことも恐れ、さらに私を避ける同修もいました。 私は1999年7.20以降、とても長い間、資料拠点で仕事をしていました。また、関連する技術も把握していました。常人の面からみると、私は学歴があるし、仕事をする能力もあります。普段は常に褒める言葉を耳にし、非難の声はめったにありませんでした。現在、皆がこうやって私に接すると、私はとても心苦しくなりました。私は数人の同修を探し、彼らに説明しました。一部の同修は何も言わなかったのですが、彼らは私の話に対して、やはり半信半疑であることが分かりました。一部の同修は、私に対してとても強硬な態度をとり、私に多くのことを指摘しました。また、一部の同修は内に向かって探すようにアドバイスしてくれました。 私は心を静めて、どうして同修たちが私に対してこのような態度なのか、考えてみました。しかし、いくら探してみても、最終的に心のバランスが取れなくなり、やはり他人に文句を言いたくなりました。その後、私はずっとこの状態ではいけないと思いつきました。私は師父のことが思い浮かびました。そうですね。ただ心を静めて学法さえすれば、解決できない問題などありません。そして、私は心を静めて、何も考えず、いかなる考えも抱かず、なるべく多く学法しました。師父の法が私の頭に注ぎ込み、少しずつ私の智慧を開いてくださいました。『オーストラリアの学習者に対する説法』DVDの中で、師父がマイクを手にし、深い誠意をこめて、学習者に対して、繰り返し、「内に向けて探してください」と説法される姿を目にすると、私は目が濡れてきました。師父が私たちのために、どれだけの心を費やしておられるのか、すでに私たちに修煉の中で、最も早く、最も近い道を教えてくださったのに、私は人間のものに執着し、前へ前進することができませんでした。本当に、師父の慈悲なる済度に申し分が立ちません。 私は引き続き、内に向けて探しました。そして、あまりにも多くの執着を見つけ出しました。この数年間、表面上、私は大法の仕事を多く行い、ひいてはとても規模が雄大で、勢いのすさまじいこともしました。しかし、多くの人心、ひいては潜在意識の中に、多くの良くない心が存在していました。例えば、顕示心、歓喜心、嫉妬心、自分を吹聴する心、自分を実証する私心、恐怖心と色欲の心も完全に取り除かれていませんでした。私は、まずはっきりさせるべきことは、これらの良くない心を必ず取り除かなければならず、本当の自分から切り離し、それから正念を持ってそれを取り除き、私と同修の間に間隔を作ろうとする邪悪の企みを徹底的に解体し、それからさらに邪悪を根絶させるということです。 (続く)
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- 学法を真に堅持すれば必ず変化が起きる
- 法を多く勉強して自分を修め、衆生を救い済度する(一)
- 師父の真修の弟子になる(一)
- 法をしっかり学ぶことは、師を信じ、法を信じることの基礎である
- 学法の重要性について悟る
- 『転法輪』の通読は大事
- 刑務所で『転法輪』の内容を思い出した体験
- 表面で精進を判断してはならない
- 新しい学習者をつれて修煉するなか、自分を修める
- 学法を実際の修煉と結び付けるべきである