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青年大法弟子、法を正す修煉の道で精進せよ(一)

 私は1996年に修煉を始め、既に14年が経ちました。何もわからずに修煉していた9歳の子供弟子は成長し、理性をもって大法を認識できるようになった青年大法弟子となりました。それは幼い時からの、自分を中心として名利を重視する常人から、今日のように自ら積極的に真善忍に同化して、世人を救い修煉者になる過程でした。この中の全ては、師父の慈悲なる御加持があって、初めて成し遂げられるものです。そこで私は、最近の修煉の中での感想を書きだすことで、皆さんと交流したいと思います。不適切なところがあれば、ご指摘をお願いします。
 
同修の良いところを見て自分の不足を探す
 
 私は幼い時から性格が非常に勝気で、常に自分を中心としていました。修煉を始めてから、なんとかして取り除こうと努力しましたが、やはり完全には取り除くことはできませんでした。私は同修の中で名声を求める心が強く、それは自分が正しいと思うものを人に強要する事に現れていました。
 
 少し前、私はある年齢の近い同修といつも一緒にいました。その当時、その同修の多くの言動が法に基づいておらず、毎回会うたびに相手を指摘するばかりで、相手も私の話をずっと黙って聞いていました。当時、私はまだ彼女が向上できないのを焦っており、彼女の変化を見ようとしていませんでした。彼女の変化を感じ取ることが出来ず、その後、失望した私は彼女を嫌うようになりました。ある日自宅に帰る途中、私はまた彼女としっかり交流しようと思いました。しかし突然、私は彼女と会って何を交流するべきなのかと思いました。頭の中でただちに「指摘」という単語が現れました。私は内に向けて探しました。私はどうやらずっと、人に対して指摘ばかりしてきました。その同修は新しい修煉者であり、既に良くできているところがたくさんあります。しかし私は、いつも彼女の不足ばかりを見ていました。師父ですら、新しく修煉の環境に戻ってきた修煉者に対して暖かみをもって接するようにとおっしゃっているのに、私のようなやり方をとってしまえば、まさに難の中にある同修を修煉できないように外に押し出しているのではないでしょうか。この同修がどんなに良くできていなくても、この同修が修煉している以上、常人の中の一番良い人よりも良くできているはずです。ならばどうして、善の無い言い方と気持ちで私は同修に対処したのでしょうか。最後まで内に向けて探すと、不平不満の気持ちも消えました。全ては自分が間違っていたと気づきました。再び相手に会った時、私は心を開いて自分の誤りを認め、相手に許してもらえるように言いました。そこで彼女は私に対して「知っていますか。私は、あなたともう一人の同修に対して既にに心を閉ざしていました」(もう一人の同修も、この同修を普段から指摘していたようです)と言いました。私は心の中で驚きました。もし師父の御加持に基づき、私が内に向け探すことがなければ、私はこの同修を外に追い出し、旧勢力の最も喜ぶことをしたことになるのではりませんか。
 
 少し前、ある同修が仕事をすることに執着して、忙しくなっている状態を見て、この人の修煉自体が良くできていないと思い、心性の向上に関する交流を全くしていないと感じました。この同修は普段から、仕事ばかりしていて、人間の情熱で大法の仕事をしているように感じました。その後、彼が私に対して「私はあなたに心性に関する交流ができていないと言われているようです。しかし実際、私が仕事をするなかで、私がどのように正しく仕事を行うのか、それ自身が心を修める過程です」と言いました。彼は自分の親が亡くなった時も、大法の仕事をやめなかったと教えてくれました。ただちに私は、自分の観念を人に強引に押し付けようとしていたことに気づきました。確かに、全ての修煉者の道は異なっています。自分の認識はせいぜい自分の次元の悟りであり、なぜそれをもって人に対して自分の認識に合わせるように要求するのでしょうか。得てして、私はいろいろな口実を理由に大法の仕事を積極的にやっておらず、自分自身に弁解してきましたが、まさにこのようなことは責任感の欠如だと思います。しかしこの同修は、常に努力しながら自分の長所をもって大法を実証してきました。比較してみれば、私はこの同修よりできていないのではありませんか。同修が関を乗り越える中で、たとえ不足があるにしても同修の立場に立って考えてみるべきです。そうすれば慈悲をもって同修の誤ちを許してあげられるようになり、同修の不足を善に基づいて指摘してあげられるようになります。共に向上することが重要であり、さらにお互い黙々と不足を円要し合い、一緒に仕事をよく成し遂げることが目的です。なぜならば私たちは皆、師父の大法弟子だからです。
 
法を学び、恐れる心を取り除く
 
 何度も警官に不当に拉致されたために、私の恐怖心はある時、非常に強くなりました。そのため家族にも大きな妨害をもたらしました。家族も皆、修煉者ですが、外に出て私が大法を実証するたびに家族は緊張した雰囲気で私に電話をしてくることがあります。ひいては私が何かをする前に、家族は心配と不安を漏らすこともありました。実は私の空間場の中にこのような物資があり、私の空間場が正しくないので家族に心配させています。そして旧勢力も私たちの間にある情を利用し、相互を妨害しようとしています。
 
 恐れる心は必ず取り除かなければいけないとわかっていながら、少しでも外部に動きがあると恐怖心が現れてきました。
 
 最もひどいときは敏感日になるたび、頭の中ではいつも迫害されるのではないかという念が浮かびました。正しくないとわかっていながらも、いつも受動的に考えが頭の中に浮かび上がってきました。師父の説法の中で次のようなものがあります「弟子:父は古い学習者で、しかも海外にいながら、表に出る勇気はありません。どのようにしたらいいのか分かりません。師:意気地がないですね。(笑) 一つは彼自身が分かるようになれば、それに越したことはありません。修煉だからです。もう一つは外的要因の作用を利用して、彼を助けてください。邪悪はある日、あなたを迫害しないから、修煉したければどうぞと言うはずはありません。実は恐れる心があるのです。『生死を放下する』と誰もが言うのですが、圧力が強くなると、負けてしまうのです。道を聞いた下士にならないでください。」(『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』)。
 
 私は突然、何かわかったように感じました。私は自分自身に問い詰めました。恐れているのにまだ修煉するのでしょうか。もし大法を最後まで修煉したければ、何を恐れるのでしょうか。邪悪にこれ以上もう迫害しないと言われる日まで、私は修煉を待つのでしょうか。私は誰のために修煉をしているのでしょうか。修煉は決して恐怖心を持ちながらトラブルそ回避して円満成就に至ることはありません。私は師父の弟子です。全て師父のご按排のもとで法を実証しています。新しい宇宙の神がなぜ、古い宇宙の中で淘汰されようとしているものを恐れるのでしょうか。同時に私は大法に同化するものであり、大法の創った一粒子ですから、法に不合しない全ての考えを自分ではないと考えるべきです。恐れるという物質は、まさに旧勢力が私を破壊しようとするため、私に強引に押し付けた物質です。ならばこの恐れという物質を旧勢力に押し戻すべきです。なぜなら、本当に恐れているのは、もはや未来のない黒い手や鬼ではないでしょうか。まだ恐れる心は残っているものの、少しずつですが、既に私は積極的にそれらを取り除くことができるようになったと感じました。数日前、私は列車に乗ってよその駅に行く予定でした。しかし駅に入る際、手荷物の中に包丁のような形をした物が入っているので、手荷物を開けるようにと駅員に言われました。しかし中には真相を伝えるための携帯電話が何台か入っているだけで、「これは私が数日前に、納入した荷物です」と駅員に言いました。こうして師父の慈悲なるご加護のもとで、私は無事自宅に戻りました。しかしその後、私が内に向けて探してみると、なんといまだに、旧勢力の按排した恐怖心が残っていることに気づきました。私は多くの人から「あの駅に行かないようにしてください、色々な迫害の事例がありますから」と言われていました。私が正念を持って対処できなかったため、駅の係員に質問されたのです。このことからわかるように、旧勢力は大法弟子がやろうとしていることを非常に恐れています。ここで他の同修に、何かをする時は必ず法を学び、正念を強めてから行うように提案します。
 
(続く)
 
 
 
 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/8/23/245757.html) (English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/9/9/127965.html)
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