日本明慧
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若い生命は大法のためにある(一)
文/江蘇省の大法弟子 雲舒
私は今年20歳をすぎました。私に生命の半分の時間を大法の中で成長させてくださったた師父に感謝申し上げます。修煉の歩みを振りかえると、今日このような環境の中で、少年のとき法を得た私は出会った試練が年配の同修より少なかったと思います。小さいときは、社会に触れるものが少なく、考えが単純で、法の中でよく修めました。しかし、年が上がるにつれて、常人社会に入った後、人間のものを放下できなければ、大法の中でしっかり修煉することは難しく、あまり精進しない状態になりやすいのです。
青年の同修は、年配の同修のように病業の関を越えるとき生死の関に遭うことはあまりないのですが、世間の誘惑を突破できるかどうか、魔難の中から抜け出して大法の真の修煉弟子になれるかどうかが、一人一人の青年同修の生死の関なのです。
周囲の青年同修の一部は、法を実証する役割を多少果たしましたが、世間の虚像に悩まされて抜けられず、自分の利益が損を被ることを不平に思ったり、人間の情に惑わされておかしくなったり、常人の功績と名誉を重く見たりして、修煉が妨害され専念できないことがあります。私もその1人です。
小さい時にできた私の競争観念は、名誉に対する強い執着を形成し、歓喜心、顕示心、嫉妬心を生じました。勉強と仕事はいつも順調だと言って自慢し、自分の執着に気がつきませんでした。今から思えば、法に合わないものを早く取り除かなければ、どれほどの人心とどれほどの魔難を招くでしょうか。そのころ、ある原因から自分の仕事を変えられ、正常でない就業状態に陥り、周囲の人々に嘲笑され同情されて、ストレスが大きく、人々に仕事のことを聞かれると、心がナイフで切られるように大変辛かったのです。突然の滑落は自分の性格を変え、焦って消極的になりました。その後、法の勉強と暗記をすることで、このような苦労はたいしたことではないと思いました。以前、順調なとき、隠された人心を取り除くことができませんでした。今日の魔難は、私の名利心に向かって来たものではないでしょうか。これは私がメンツをなくすことを恐れるか否か、魔難の下で三つのことをしっかりできるか否か、何を大事にするのか、大法をどの位置に置くのかを見ていました。
魔難の本質が分かった後、私の考えははっきりしました。以前、修煉の過程の中で、他の部分で真の修煉と鍛錬をしましたが、この部分で心が正しくなく、良い環境の中で法を実証することを大事にせず、また長い間、取り除くことができなかった顕示心や歓喜心や名利情が、トラブルを激しくさせました。今は心性を向上すべきだと分かり、執着の根を掘り出し、これまで隠れていた心を暴露し、一つ一つを取り除くようにしました。
ある小さなことが私に法の理解を大きく前進させました。ある日、電子製品を買いに行く途中、知らないうちに財布が盗まれ、一気に数百元がなくなり、懐に一銭もありませんでした。当時、本当にしょんぼりして、1人でがっかりしながら歩きました。私は「懐に一銭もない」ということをはじめて経験しました。世間のすべてがこんなに簡単に、心の準備がまだできていないうちに一瞬に消えてしまいました。このとき、私は「身の外の物」とは何かはじめて分かりました。名誉、財産、事業、感情など世間のものはこんなにも不安定で、ある環境の下で、私にこれらのものがなくなったとき、私に残されたものは何でしょうか? 私の身体、私の考え、また法なのです。この瞬間、私は法の貴重さを悟りました。世のすべてのものは移ろい易く、心が法の中にいれば、充実と恒久がどんなものかが分かりました。無駄なものを取り去ったとき、私は自分の命が大法と密接につながり、人間のものを失っても怖くなく、大法を失うことこそ最も恐ろしい事だと初めて分かりました。心の中に法があることが私たちの生命が存在することの保障であり、生命の希望であり、存在の意味でもあります。
(続く)
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