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青年大法弟子、法を正す修煉の道で精進せよ(二)

青年の大法弟子の修煉と責任
 
 子供の大法弟子から青年の大法弟子になる中で、私は自分自身が、なんと幸運なのかと思いました。私は人生の中でこの世の汚染を多く受けることなく、幼い時から大法を学ぶことができ、幸運だと思いました。しかしまた、修煉の基準は同じであり、小弟子であっても青年の大法弟子であっても、いずれも大法に対して理性をもって認識しなければならず、そこではじめて修煉の道を最後まで歩むことができるのです。これまで長年、両親のもとで修煉してきた多くの子供の大法弟子たちは、社会の中に入ってから怠惰になり、修煉をやめたケースも相次いでいます。これは大法の大切さを認識できておらず、修煉の重要さを認識できていないからだと思います。大法の大切さを認識できなければ、いったん両親から離れてしまうと、常人社会の汚染に抵抗できなくなります。
 
 青年の大法弟子は年配の大法弟子のように病業の難に直面することはめったにありませんが、しかし自分自身を緩めてはいけません。なぜなら私たちは多くの名、利、情の誘惑に直面し、仕事の圧力に直面する中でどのように大法に基づき自分に要求し、どのように考えを正すのか、いずれも私たちが厳粛に対処しなければならないものです。師父は『精進要旨ニ』の「道」の中で次のようにおっしゃいました。
 
 「修煉者にとって模範はなく、各人の歩む道も異なっています。なぜなら各人の基礎が異なり、各種の執着心の強さが異なり、生命の特徴が異なり、常人の中での仕事が異なり、家庭環境が異なる、等々の要因によって、各人の修煉の道は異なり、執着を捨てる状態は異なり、遭遇する関の大きさが異なっているのです。ですから、表面的に、ほかの人が用意してくれた道は非常に見つけにくく、都合の良い乗り物に便乗することは、さらに不可能なのです。もし、用意された道と便乗できる乗り物が本当にあったとしても、それも決して修煉ではありません。」
 
 年配の弟子は苦を嘗める能力が強いのですが、常人社会の中で既に身についてしまった観念も強いため、法理に対する理解がスムーズにいかない場合があります。しかし、青年の大法弟子は観念も少なく記憶力も強いため、理性をもって大法を認識するのは比較的簡単だと思いますが、苦を嘗めることができず、按逸心を求める心が強いと思います。時々関を越えられなくても「自分はまだ若いので我慢できない」「苦を嘗められないのはしかたないことだ」と自分自身に言い聞かせたりします。また、身の回りの一部の年配の同修は、青年の大法弟子に対して、「あなたたちのように、この若さでここまでできれば十分です。朝早く起きて煉功できないのは若者がより多くの睡眠を必要としているからです」などと言います。しかし、これらの考えはいずれも人間の情です。法に基づいて考えていません。修煉において達しようとしている基準は同じです。決して私たちが若いので、円満成就の基準が下がるわけではありません。修煉の道は異なっていますが、執着心を取り除くことは同じなのです。
 
執着心を取り除くことは重要です
 
 神韻芸術団の中の青年弟子もしくは子供の小弟子たちの素晴らしいパフォーマンスを見て、彼らが舞台裏で特訓した日々を思うと敬服する気持ちばかりです。同時に自分自身の責任の重大さを感じます。私達は彼らと同じように神韻のステージに上がってはいませんが、私達は同じく師が法を正すことを手伝うという、ステージの上に立っています。私達が今、大法が伝わる中国で産まれて、そして大法が広がる時代に若くして大法の修煉を始めることは、どれほどの機縁なのでしょうか。私たちはもっとこのことを大切にすべきではありませんか。ある時、私のパソコンが壊れたので技術のわかる同修に直していただきました。その同修は50代の年配の女性で、以前はパソコンがわからない人でした。私はこれを見て恥ずかしく思いました。もし私たちが小説を見る時間とゲームをする時間を全て、学法と法を暗記することにあてることが出来れば、それこそ衆生を救い済度することをもっとできるようになるのではりませんか。
 
 これまで自分がやってきたことは、師父の要求とほど遠いと感じました。人に何年修煉してきかたのかを聞かれるたび、自分は1996年から修煉したと言えませんでした。なぜならば、子供時代はほとんど修煉していないかのようで、自分は古い大法弟子という資格がないように感じました。しかし、今になって私はこれが責任を負いたくないという考えだと気付きました。世俗の中の様々な誘惑に直面して、名、利、情の妨害、さらに按逸心や惰性などにより、様々な時に自分自身をうまくコントロールできません。心性を向上させるチャンスを棒に振ってしまうことも多くあり、衆生を救うチャンスを台無しにしてしまったことがあります。しかし、私はこれ以上チャンスを逃しません。しっかりできるように頑張りたいと思います。
 
 師父は「難や解決できないことに遭うとき、いつも何かの方法がないかと考えています。実は大法に基づいて着実に修煉するしかなく、近道はありません。」(『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』)と説かれています。
 
 師父は既に天に登る梯子を弟子に残してくださいました。私たちが努力し法を学ぶ中で 必ず修煉の道を最後まで歩み、自らの誓約を成し遂げることができるのです。
 
 師父を思うたびに、私がよくできていないために、師父に多大な迷惑をかけたと感じています。どうか師父、ご安心ください。弟子は必ず師父が与えてくださった全てを大切にし、しっかり修煉します。修煉の道でしっかりと3つのことを行い、より多くの衆生を救い、神の道で精進していきます。
 
(完)

 

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/8/23/245757.html) (English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/9/9/127965.html)
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