【慶祝5.13】パンを買いにいく途中の出来事
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年5月28日】ある日、お客さんが家にやってきて、食事の用意にパンを買いに行きました。自転車で人の間を通り抜けていくと、途中で突然道に人が倒れているのが見えました。じっと動かないで、頭部付近の地面に血が溜まっていました。しばらく時間が経っていたようで、彼の後ろの2メートルぐらいのところに一台のオートバイが倒れていました。

 通行人と車両はみんな道の端を気をつけながら通って行き、停まって人が生きているかどうかを見る人は1人もいませんでした。道の両側の店の人もみんな店の窓やドアからこっちを見て、誰かがくるのを見るだけでした。道の両側から遠く離れて見ている人や、横目で見ながらゆっくり通って行く人、見ようともしないで慌てて通りすぎる人もいました。

 この場面を見て、25年前、修煉する前のある出来事を思い出し、今になって私の良心が不安になる事がありました。それは、私が結婚したばかりのころ、一度、家に帰る途中の道で、道端に若者が座っていたのを見かけましたが、表情はとても苦しそうで、道端に排尿をし終えたばかりのようで、ふらつきながら立ちあがり、地面に倒れていた自転車を起こそうとしました。急病ではないかと心配し、支えてあげたいと思いましたが、一方、酔っぱらいだったらどうしよう? 支えてあげる隙に私に無礼をして、近隣に見られたらどうしようかと心配して、ためらった結果支えてあげる勇気がなく、心では、もし彼に本当に何かあるとしたら、きっと通る人を見たら助けを求めるだろうと思い、彼は何も言わないし、自分も気にしないほうがいいかもしれない、誰かがここを通って助けてあげればいいと思いました。この事を思い出すたび、万が一彼が本当に助けを必要としたのであれば、私は命の危険を見逃したのではないかと、良心に不安を覚えました。

 大法を修煉してから、これは利己的だということが分かりました。師父は『オーストラリア法会での説法』の中で大法弟子への要求について「如何なることにおいても、まず相手を考え、相手のことを考えてから自分を考えるのです。私は他でもなく、皆さんが自分のことより他人を優先的に考えるという正法正覚の圓満成就まで修煉するようにと要求しています」と説かれました。

 私は師父の弟子であり、師父の要求に従って行なわなければなりません。人の命が危ないのに無視してはいけません。まだ生きているかどうか見に行かないといけません。自転車を道端に置いて、急いでその人の横に行くと、目をしっかり閉じていて、少しの意識もなさそうで、死んだようでしたが、手を彼の鼻のところに当ててみると、少し弱い呼吸があるので、指に力を入れて彼の人中を押さえて、意識が戻ってくれればと思いましたが、しばらく押さえても少しの反応もありませんでした。

 しかたなく手を放して、心の中で師父に助けを求めました。「師父、彼を助けてあげてください! 意識を戻してください!」と願い、彼に「法輪大法は素晴らしい! 真善忍は素晴らしい」と念じ始めました。しばらくすると、彼は一口大きな息を吐いて、体が一度動きました。「師父、ありがとうございます!」と言い、私は道端に立って見ていた人々に、「この人はまだ生きています。意識がまたあります。一人で助けることはできない」と声をかけると、誰かが遠くから「110番にかけなさい!」と返事しました。

 私はすぐに電話で110番にかけると、相手は事故の経過を聞いて、私は「分からないのです。私がここを通る時、地面に倒れていたのを見かけました。時間が結構経ったようですが、誰もかまわなかったのです」と言うと、「相手の車はまだいますか」と聞くので、「いません」と答えると、彼は続いて事故の場所を聞くので、詳しく教えましたが、しかし彼は「120番にかけてください。こっちはすぐにはいかれないから」と言いました(中国では救急の緊急番号は120番)。

 私は急いで120番に掛けました。この時、道端で見ていた人々の中で、怪我人を知っている私の家の隣のホイ族のお兄さんが現れ、怪我人と同族の人で、彼はすぐに怪我人の家族に電話をして、怪我人の娘婿は直ちにこっちに向かってきました。120番が通じて相手は事故の場所を聞き、「現場に怪我人の家族はいませんか」と聞くので、「ほかの人が彼の家族と連絡をとり、今こっちに向かっている途中なので、すぐに来ると思います」と答えました。

 この時、私の隣の人はオートバイのシートを取って、怪我人の血が流れている頭の穴を当ててようとしたのを私が止めました。そして、汚れたシートが傷を感染させる可能性があるから、救急車がすぐにくるから待って、救急の人に任せたほうがいいかもしれないと言いました。この時、やっと離れて囲んでいた人々から前へ進んで様子をうかがう人がでてきて、私は近くでお店をやっている親戚の人に横へ引っ張られて、この人を知っているのかと聞かれ、知らないと言ったら、親戚も知らないのに、関わるの? と言いながら、私を道端へ引っ張って、「早く行ったほうがいい、よけいなお世話をやめて、お金を恐喝されたら怖いでしょう」といいました。私は「法輪大法を修煉していますので、死んでしまうかもしれない人を目の前にして、恐喝なんか怖くない、心配しないで」と言いました。

 親戚の気持ちは分かります。かつてここで人を助けたのにお金を恐喝された事件がありました。おばあさんが車にぶつけられ、事故を起こした車は逃げてしまって、通りかかった人が善意におばあさんを病院に送って、入院させましたが、その家族が来て、感謝するどころか、かえって助けてくれた人を加害者と見なして、すべての費用の賠償を要求しました。理由は、自分がぶつけていないのに、なぜ病院まで送ったのか? と言うのです。

 私は怪我人のそばに戻って、救急車を待つことにしました。

 怪我人は意識が戻って、体を動きました。私には中学校の仲のいい友達が病院の120で仕事をしているので、来てくれるかなと思いました。救急車は間もなく来て、救急の人が車を降りて、すぐに救急を始めました。友達がその中にいるのが見つかって、彼女たちが素早く傷の処理を終えて、点滴をつけて、救急車に搬入するとき、家族も救急車に乗ってほしいというので、私は家族ではないが、必要ならついて行くと言いました。

 私の友達はやっと私がわかり、「知っている人?」と聞くので、「知らない」と言いました。彼女は不思議そうに「知らないのに、あなたは・・・?」と言うので、「私は法輪大法を修煉しています。人が死んでしまうかもしれないとき、助けないといけません」と言ったところに、怪我人の娘婿が着いて、まず最初の一言は「誰がぶつけたの、加害者はどこ?」と聞いて、周りの人はすぐに、「速く乗りなさい、人を助けるのが肝心だ」と言い、彼はそれでやっとお父さんの状況の確認を思い出して、お隣の人は自分が人を助けた過程を述べて、あの娘婿は感激して車に乗りながら、後日必ず感謝すると言って、お隣の人は違和感もなく救命の恩人として彼の感激を受け止めました。

 救急車が行って、自分も用がないから離れていこうと思い、家にはパンを待っているお客さんもいるから。人の群れから静かに出て、自転車に乗ってパンを買いに行きました。

 私はいつもこのパン屋さんに来るので、ご主人夫婦とも真相が分かって三退しました。店は大きくないが、結構人気があります。中に入ると人がいっぱいで、人々は事故の話で盛り上がっています。店の主人は私があの事故に関わってきたのを分かっているので、私に事故の事を聞き、私は簡単に経過を述べました。予想外に、店の主人はとても感動して、「あなたたちのような人はあまりにも少ないです。人を助けた後に名前も言わず、今の人は、車をバックして死なせないのはまだいいほうです。今日は私が奢ります。お金は要りません。人を助けたあなたへのご褒美です」と言いました。

 私も店の主人の言葉に心を打たれて、彼に「私たちはどこにいてもいい人になってくださいという師父の教えがあります。大法を修煉する人ならだれでも私のようにするはずです。テレビが放送したあれらは全部私たちに濡れ衣を着せるためです」、「あなたたちもこの小さい商売で稼ぐのは容易ではない、私も自分がやるべきのことをやるだけで、あなたの心意気を頂きますが、修煉者は人から徳をもらうわけにはいきません」と言いました。

 私が固く拒否するのを見て、店の主人は一歩譲って2元のお釣りをくれて、「それならコストだけをもらって、残りは私も助けた一人として奢らせてください」と言いました。彼の誠意は断れないので、私は「ありがとうございます」と言って受けとりました。

  店を出た時、店内の人はみんな私にうなずいて微笑んでいました。この時自分が師父の弟子であることを心から光栄だと思いました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/5/13/291389.html)
 
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