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修煉者の「真」についての悟り


文/中国の大法弟子

(明慧日本)一部の同修は私を含めて、真実の話をすることが真の表れだと思っているようです。ですから、共産党の法輪功修煉者に対する迫害について、何も考えず真実の話をしたため、結果として迫害を重くし、同修にも損失を与えてしまいました。また、ある同修は真相を伝えるとき、特に家族に対して真相を伝えるとき、言葉を選ばずに、何もかも話してしまうのです。結果として相手をびっくりさせてしまい、真相を理解してくれないのです。或いは、相手が共産党に詰め込まれた文化のことを話すと、心が焦りだし、黙っていられず反駁してしまいます。

  酷い場合は相手と言い争い、相手を救うどころが、逆に相手を救いようのない側に立たせてしまいました。この結果について、自分の不足を探さず、逆に相手が理解のない人間だ、幾ら説明しても聞く耳を持たない、真相を伝えるのはとても難しいですねで済ませてしまいます。ある人は家族に真相を伝えようとするのですが、しかし口を開けば喧嘩となり、家族の人は思わず「法輪功についての話は、今後やめましょう」というのです。この同修は悔しい気持ちでいっぱいになり、家族に対し「すべてはあなたのためなのに、なぜそんなことを言うの?」と責めるのです。

  このことについて、実は師父が法理を教えてくださいました。「異なる次元には異なる法があり」(『転法輪』)、「真・善・忍」は宇宙の特性ですが、どの文字を取り出して話しても、真善忍の特性が含まれています。同時に「真」は常人の方程式のようなものでもありません。ただ一つのやり方で真相を伝えると、絶対化しすぎて、機械的になりすぎます。

  例えば、共産党に利用された人があなたに聞きます。「法輪功をまだ修煉するのですか?」 あなたが「真」を求めて「修煉する」と答えると、結果として拘束され迫害されるのです。ある同修は理知をもってこのように答えました。「あなたは私に聞く権利もなければ、私はあなたに答える義務もない」 相手の質問を無視し、相手の誘導にのらなければ、結果として何も起こらないのです。この二つの答えはどちらも真実の話で、旧勢力の迫害を否定することになります。

  「あなたは私に聞く権利もなければ、私はあなたに答える義務もない」 字面からいいますと、法輪功を修煉するのは個人の信仰であり、法律から言っても合法であり、他人は干渉する権利はないはずです。別の角度から言いますと、自分のことだけを考えているのではなく、相手の誘導にのらず、相手の質問に答えないのは、共産党に利用されている彼らに再び業力を作らせず、結果として彼らを守ったことになります。これは「真」の中の善の現れであり、慈悲の現われなのです。

  このように答えるのは、実は忍の心の現われでもあります。質問は相手を挑発する性質があり、風呂敷を広げて迫害を実施するための準備なのです。答える人は驚かず、恐れず、傲慢でなければ、卑屈でもなく、相手と対立しなければ、これは最大の忍ではありませんか? 再び常人のレベルに戻ってお話すれば、最も常人の状態と合致し、共産党が必要とする「供述」に協力しなかったことで、かれらは罪を決める根拠を失い、諦めるしかないのです。もし、共産党が供述もなく、また署名もない状況下で依然として、強行して罪を与えようとすれば、彼らは自分らの本性、不法な行為を、自ら暴きだしているのです。

  真相を伝えることも同じことだといえます。私たちは善意を持って相手を理解し、相手が何を話しても、その言葉に動かされることなく、相手の考え方に誘導されることなく、反駁せず、相手のマイナスの要素に触れないで、相手と対立する状態を作らず、相手の立場に立って物事を考え、慈悲をもって相手の善の念を啓発し、正念をもって真相を伝え、相手に良いものを上げれば、相手の背後にある邪悪な要素を解体し、相手を救うことができるのです。このとき私たちが話した言葉は、修煉者が言う「真」の言葉であり、人を救うことができるのです。それは「真」の中に、善も、忍も含まれており、大法の力が現れるからなのです。

  2010年6月5日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/5/26/224339.html

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