日本明慧
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小さいことにおいて善を修める


文/中国の大法弟子

(明慧日本)以前実家に帰る時、いつも玄関前で不満がいっぱいでした。原因は毎回長く待たないとドアが開かないからです。そして、積み重なった不満がどんどん湧いてきました。こんなに長く待ったのにまだ開けてくれない、こんな親はなかなかいない、私は親孝行で帰って来たのにいつもドアを開けるのが遅い。そして、思えば思うほどドアをたたく力が強くなって、壊してしまいそうになって、心も落ち着かなくなります。相手が受けてくれないような気がして、帰るときにわざわざドアをひどく締めて不満を噴出します。

 これは根本的に正しくなく、修煉者の基準で律していません。さらに、完全に怨恨の考えの下に行動して善がありません。自分の家に戻ってから冷静に内に向かって探しました。これでは駄目だ、両親は年を取っているので耳が遠い、足も不便なので、自分はなぜそんなに強気でなけれなならないのか? しかも相手は自分の父母で、70才です。なぜ理解してあげないのか? 相手の立場に立って考えることさえできないのに、善や忍を口にする資格があるのか、と思いました。それで、この善の念を持って再び行った時、ドアを敲く音が小さくなり、ゆっくりとして、待つことも落ち着いていられました。両親は寝ているのではないか、台所で家事をしているのではないか、こんな年配なのにまだ娘のために食事の支度して本当に良い父母だ、といろいろ思いました。これは相手のために考える第一歩で、善を修め始めたということです。心に善が生じた分、怨恨がなくなりました。

 それからもっと深く考えて、いつも両親に、ドアをたたく音を聞いてすぐに出てきて欲しかったのですが、老人にとっては無理です。私は親孝行していませんでした。私は鍵を持っているので、自分で開ければいいのに。それから、私は自分でこっそりとドアを開けて、いつも静かにしている両親の邪魔をせず、そして帰る時も静かにドアを閉めて帰ります。年を取っている両親のためにできることは少なくなったので、少なくとも感謝の気持ちを込めて世話をしなければなりません。同時に修煉者の私は、子供として両親に温かく接し、仏光が普く照らすことを感じさせなければなりません。なぜいまさらやっと認識できたのでしょうか? もともと基本のことなのに、本当に恥ずかしいです。私は外に向かって探し、常人の観念が強かったのです。そして、怨恨の心を取り除かず、善の本性をもって律していませんでした。自我を放下して初めて人のことを受け入れられ、善が生じます。慈悲が生じ、怨恨がなくなります。

 修煉は根本的に常人の観念を変えなければならず、常人の変異した観念をもって物事を見てはなりません。修煉者として私心私欲の角度から考え、行動してはなりません。いつも自分を中心にして、常人の観念を持ち、自分の愚かな所見に限定された枠の中に陥っては、物事の本質を見極めることができず、「真、善、忍」の基準にはなりません。根本的に常人の観念を変えて、人の立場に立って考えて初めて修煉の道を正しい方向に歩めます。

 修煉は自分の本性を探しあてて、返本帰真することです。本性はもともと「真・善・忍」で構成されていて、最も正しく、慈悲で善良な神の考えを抱えています。修煉者としては、高い基準で律していれば、良い状態、高い境地に達することができます。最高の基準というのは何でしょうか? それは神になる修煉者の人間における基準であり、いつも慈悲をもって人に接し、寛容になり、忍をもって人に接し、そうすれば正念が生じます。さらに、自分を低次元の考えに陥らず、常人レベルの認識を持たないようにし、常人に対して無欲、寛容、平常心を持つことです。こうして初めて成熟し、円満成就することができます。

 生活における小さなことでも修煉の要素が含まれていますので、自分の心性を練磨すれば、次元の向上に役に立ちます。いつも自分の不足、執着を探して、真・善・忍におけるそれぞれの不足を補うべきです。自分を修めて、本性を蘇らさせて、神の自分で自分を律することで、初めて後天の観念や思想業力の妨害を取り除き、修煉の道を進むことができるのです。

 2010年4月2日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/3/23/220252.html

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