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謙虚の仮面をかぶった嫉妬心をなくそう


文/中国の大法弟子

(明慧日本)以前師父に評註された文章『師父と大法を称え ◎師父評注』のなかに、嫉妬心が原因で精進する同修の足を引っ張ってはいけないとの話がありました。実は、嫉妬心は深く隠されたもので、旧勢力がもっとも望んでいることです。たとえば、迫害の環境で邪悪に妥協し、転向する時に、往々にして心の中に二つの考えが混ざっています。表面上では他の同修が堅持していくことを期待していますが、一旦同修も転向してしまったら、同修の為に悔しく感じたり、さらに邪悪に対する恨みの中に隠れているもう一つの考えも生じます。それは、同修の正念がこれほど強かったのに、なぜ転向してしまったのでしょうか。転向してしまったこの同修と比べたら、私はまだましだと感じました。時には自分より悪い同修を見て、自分が転向したことが本心ではないから、彼らよりずっとよいと思うのです。監禁されていない同修たちは互いに軽蔑しているのは、このような嫉妬心によるものです。このような嫉妬心は自分より精進する同修を嫉妬することより分かりにくいし、同修の間に隔たりを作りやすいのです。
 
 もう一つの問題がありますが、たとえば、同修の前では自分は精進していないと普段から言っているわりには、自分を改める心が強くないし、しっかりする決心がありません。しかし、なぜ自分の口から自分が精進していないと言うのでしょうか? 仕方なくそういっているだけでしょうか? それとも同修に苦情を訴えて同情してもらうつもりでしょうか? 聞く相手も相槌を打ちながら「そうね、わたしもそうです」などと言っています。しかしこのような話は何の意味があるのでしょうか? そこで同修が、他の人もあまり精進していない、朝起きて煉功していない、自分も少し怠けても構わないという心理が生じて、ひいては他の同修が精進しないことを望んでしまいました。他の空間ではすでに非常に良くない物質が形成されてしまいます。旧勢力もこの弱点を握って手放しません。「これらの修煉者ですら自分のことがだめだと言っているので、なら、だめになるようにしてあげましょう。しかも他の同修が精進できないことを望んでいるという極めて良くない嫉妬心を持っているじゃありませんか?」と言って大法弟子たちを迫害するのです。私たちは法を正す時期の大法弟子であり、大法を実証し、衆生を救い済度する使命があるので、必ずできるのだとお互いを励ましあっていけば、決してこのようなことにはなりません。
 
 それでは、誰が我々の口を利用してこのように話させているのでしょうか? 実は旧勢力が修煉者の嫉妬心を利用して言わせているのです。これは、「どうせ天が落ちてしまえばみんな一緒に死ぬのだ」という常人の心構えと同じではありませんか? この時に自分の身分、自分の使命を忘れてしまい、まさに旧勢力が望んでいることではありませんか。
 
 大法弟子は旧勢力の按排をすべて否定するものの、一旦我々が自分を厳しく律しなくなると旧勢力を承認するのと同じことです。同時に、旧勢力も精進しない大法弟子の存在を理由に迫害するのです。
 
 自分の不足をひとたび認識したら、私はできるとの一念を固く持つべきです。私は法を正す時期の大法弟子であるからです。また、他の同修も助けを求める同修の為によく発正念すべきです。師父は、「佛性がひとたび現われると、十方世界を震わす」ことを教えて下さったのです。私たちの正念が湧いてきたら、師父および宇宙の神々が皆助けてくださるので、よくできないわけはありません。
 
 同修たちよ、正念を持ちましょう。師と法を固く信じて、自分の使命を強く認識できればできないことはありません。我々はきっとできるのです。法を正す時期の大法弟子であり、法があり師がおられるからきっとできるに違いありません。
 
2010年12月01日

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