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嫉妬心を掘り出す


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は1998年の末に法輪功の修煉を始めて、苦難の道を今日まで歩んできました。たくさんの人心がまだありますが、今日は嫉妬心について同修と交流し、ともに向上しましょう。

 以前、嫉妬心は私には関係ないと思っていました。小さいころから他人に被害を加えることはないし、相手が私より強く、私より良い生活をしているから心地よくないと感じたことはありません。ですから、嫉妬心について全く重視せず、自分にはないと思っていました。しかし、嫉妬心は日常生活の中で私たちの心の奥深くに潜み、至るところに現れます。

 私が嫉妬心に気付いたのは2004年ごろです。当時、小さい店を出して商売はうまくいっていました。店の付近に住むある女性の夫が鼻のガンにかかり、化学療法をするにはお金が足りませんでした。私は彼女を雇いました。彼女の2人(2番目と4番目の姉)の姉は彼女を全力で助けていますので、彼女一家はとても感謝しています。とくに、彼女の2番目の姉は飲食費のすべての面倒を見ていました。数カ月一銭も取らない時もありました。

 4番目の姉が私に話してくれました。夫の姉妹は全然面倒を見ないし、姑は息子がガンにかかってお金がないのに麻雀をやるなど、毎日このような話を聞きました。少しイライラしましたが、彼女は修煉しないから人と人の間の因縁関係を知らないのだと、気にしませんでした。

 2番目の姉が、豆花のご飯を食べるので私にぜひ来てください、と言ったので行きました。家に入るとひどく貧しい感じがしました。古い家で立派な家具は一つもありません。こんな家庭で妹を助けているのだと尊敬しました。4番目の姉の家の収入は1500元以上あり、家の家具はすべて新しく、お金を自分のために使っています。不満に思いましたが、思ってみれば前世で2番目の姉は多分彼女に借りを作っていたのだと思います。これで心が少し落ち着きました。彼女が2番目の姉の話をしているとき、私は苦しく思い怒りたいと思いましたが我慢しました。

 その時期、私は非常に苦しんでいました。なぜ苦しむのか、どの心がいけないのか、私は何を求めているのかと自分に問いました。 師父が名、利、情に触れた時に苦しみを感じるとおっしゃったことがありますが、名、利、情は私と全く関係ないと思いました。大法弟子の身の回りに起こったことは偶然ではなく、その心がなければそのような難がありませんので、必ず良くない心があると思いました。

  探しても見つからないので、師父の助けを願いました。すると、学法するとき『精進要旨』の「境界」に「悪い人は嫉妬心の行き着く末に、自分のため、怒りのために、自分のことを不公平だと言います。 善なる人は慈悲心が常にあって、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです」とありました。私は呆然としました、これは私が探していた答えです。当時とても感動し、師父の慈悲なる啓示であると分かり、自分の学法がとても少ないと感じました。

  もともと嫉妬心が原因であったと分かりました。師父が4番目の姉の嫉妬心を私に見せて悟らせてくださったのですが、私は自分を見ようとしませんでした。分かった後、時間があると嫉妬心と取り除くように発正念をしました。徐々に私の心理状態は落ち着くようになりました。何を見ても感じがよくなりました。そして4番目の姉は私の店が人を雇う必要がないのに雇ってくれたことに気付きました。数日後、彼女はほかの所でバイトを始め、私たちはお互い喜んで別れを言いました。この出来事の後に「柳暗花明又一村」の含意を心得ました。

 それからは、どんなことに遭っても法に照らすようにしています。法に照らしてみると、嫉妬心の多さと深刻さがやっと分かりました。師父が『転法輪』の「嫉妬心」の中で「わたしは法を説く時、嫉妬心の問題によく触れます。なぜでしょうか? 嫉妬心は中国ではきわめて強烈に現われており、すでに日常茶飯事になっていて、自分でもそれと感じられないほど強烈なものとなっています」とおっしゃいました。そうです、日常生活の中で、不満に思う心はいつでもどこでも現れます。自分にはないと感じても、本当にないのだと思わないでください。

  2010年4月30日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/27/222241.html

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