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「求める」ことについて

(明慧日本)身体がおかしい時、あるいは難に遭った時、「師父にご加持をお願いして」と勧める文章を最近『明慧週刊』でよく見かけ、周りの同修もよく言っています。着実に修煉していない学習者に対して、困った時や危ない時、師父を思い出す、師父にお願いすることが思い出せれば確かに重要です。しかし、「法には定法無し」「着実に修煉しなければならない」「求めないで自ずと得る」などの法がありますから、いつでも師父にご加持をお願いすることは絶対な正解、不変な公式ではありません。
 
 実は、我々は師父にお願いするとき、その難は師父が引き受けられます。危険な時に師父に求め、執着心が取り除けない時に師父に求め、問題が見つからない時に師父に求めます。しかも、求めれば必ず解決してくださると言っています。このように求めて本当に良いでしょうか。着実に修煉しないで、良いことをすべて引き受け、辛いことを師父に押しつけ、これは着実に修煉していると言えるのでしょうか。これは修煉ではなく、求めることです。さらに、自分の求めに応じてくださらないと、師父を信じなくなり、大法を信じなくなってしまいます。これは間違った道を歩んでしまったのではないでしょうか。
 
 師父は『転法輪』で書かれています。「生命の危険があるとき脱出方法を教えてくれる場合は別として、常人の社会で何か得をせようとするのはすべて魔です」 常人社会で身体が楽になるのを求めて、心性を高めないことは、何かを得ようと求めることではありませんか。私の考えでは、面倒を見るべきことは、師父は必ず見てくださいます。面倒を見るべきではないことは、我々が求めても面倒を見てくださいません。なぜなら、我々はいつでも法に照らしていなければならないからです。
 
 以上の認識に誤りがありましたら、是非ご指摘ください。
 
2011年01月30日

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