六、引き続き尾行 監視 洗脳
2005年1月20日、4年の不当拘禁が満期になりましたが、それでも私は自由になれず、石宝鎮の主任が「迎え」に来ました。家に帰ってからも、主任がしょっちゅう車で私を追いかけたりします。石宝鎮の党書記らは、いつも私を監視しています。石宝鎮政府に炊事係として雇われている竜は、実際は炊事などをしておらず、長期に私を監視しています。
永楽派出所の所長は、異動で石宝鎮の党書記になりました。私は2005年に家に戻った後、党書記らは至るところで私を監視するように指示し、一人が電話や私の実家まで来て嫌がらせをしました。
2005年9月、党書記、派出所所長らは、私を古藺県の箭竹郷洗脳班へ連行しました。その日、私は実家の親戚で葬儀に参列している最中でしたが、彼らは大勢の村民の前で、白昼の下で私を連行して拘禁しました。古藺県610弁公室のリーダーは箭竹郷洗脳班で陣頭指揮をしました。
箭竹郷洗脳班で、私は法輪功を中傷する邪説を拒絶し、転向せず、そして断食をして迫害に抗議し、釈放して自由を返すよう求めました。610弁公室のリーダーは看守らに指示し、私を長時間立たせるように強制し、また灌食、薬物の注入、唐辛子スープを飲ませるなどの拷問で私を苦しめさらに罵ったり殴ったりし、「転向しないなら、労働教養か重慶の精神病院に送ってやる」と恐喝しました。
七、絶え間なく嫌がらせ 家族にまで圧力
私が箭竹郷洗脳班から戻って数日も経たないうちに、石宝派出所の所長らは天井から縄を吊るして窓を壊し、私の借家に侵入し、捜索をしました。24時間監視するため、私は石宝鎮政府の寮に拘禁されました。
2007年1月、私の夫は刑務所から家に帰ったばかりで、古藺県の政法委員会(情報、治安、司法、検察、公安などの部門を主管する機構)、石宝鎮の副鎮長らは、私の家に押し入り、私たちを迫害しようとしました。
2008年ごろ、私達は娘の家で留守番をしていた時、副鎮長らが娘の家に侵入して法輪功の書籍を没収しました。
2009年3月11日、古藺県610弁公室メンバーらは、二郎鎮、東新郷、太平鎮で連続して10数人の法輪功修煉者を連行しました。4月5日、石宝鎮の役人ら6人は、610弁公室の命令を受けて、娘婿の家に侵入し、上の階、下の階、ブタ小屋、すべての部屋、隣の家まで大捜索を行い、村長は路上で見張りをして、私、夫と息子の3人を連行しようとしました。
同年5月4日、石宝鎮書記らは、私の夫の実家で24時間待ち伏せ、警官とパトカーを配置し、深夜に明かりを持って私達を追尾しました。
八、一家離散して肉親を失う
2009年5月、彼らは私達を連行することができなかったため、夫の年金を全部凍結し、私達の住まいを占領しました。私達は路頭に迷い、80歳の母は世話をする人がおらず、しかたなく異郷を流浪しました。
1999年に迫害が始まって以来、私の家族は深刻な迫害を受けて、ずっとばらばらの状態でした。この残酷な迫害の中で、私の家族は4世代の3人の命が奪われました。
2001年1月19日、警官は父の前で私を連行し、父はその場で涙を流し、悲しみと憤りで言葉が出なくなりました。両親は私の帰りを待ち続ける中、2003年に夫がまた刑務所に入れられて、父は病床に倒れました。父は私達の心身の変化から大法の素晴らしさを実際に目にして、自分も修煉しようと思いましたが、その日まで待つことなく、悲しみと憤りの中で世を離れました。
2008年、息子の嫁に子供が生まれました。子供は生まれてから病気になりました。当時、私達は迫害され、子供の病気を治療するお金がなく、数日後、孫は若死にしました。
息子は私達を離れて1人であちこち転々として、夫婦は離れ離れ、愛する子を失い、次々と重なる圧力の下で、私は病気で寝こんでしまいました。息子の病状はますます悪くなり、吐血して、2011年4月に亡くなりました。亡くなった時、私にはお金が一銭もなく、非常に苦しい状況でした。
私達の境遇は、中国共産党の10数年間におよぶ法輪功迫害のもとで、真実の惨事です。人間は生存の権利があり、信仰の自由があり、幸せな家庭の夢があり、一体誰がこのすべてを奪ったのでしょうか? 迫害に加担した人達は、罪の責任から逃れることはできないでしょう。