明慧法会|執着を取り除き 全体で向上する
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文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本2019年11月13日】私はしばらく前に法輪大法の修煉を始め、その後、衆生に法輪功への迫害の真相を伝えることが、どれだけ緊迫していることなのかがわかりました。私は小さな地区に住んでいるため、師父が私たちに与えられたこの「迫害の真相を伝える」という任務を果たすことが、とても難しいと感じていました。付近のどこに行けば、中国人に出会えるのかわからず、どのように人々に法輪大法を紹介するのかもわかりませんでした。

 明慧で仕事をして 1年目の出来事

 修煉を始めてから、明慧ネットの解説と報道はずっと私のそばにありました。修煉を始めて1年後、私は明慧編集部あてに「文章の校正とポッドキャスト(訳注:ホームページ上の音声や動画)の収録の方面でお手伝いできたらと思います」と電子メールを送りました。数日後、協調人から電話があり、さらに1編の文章を英語からドイツ語に翻訳してほしいと言われました。夫も私も修煉者なので、私たち夫婦は協調人と相談後、一緒にこの文章を翻訳することにしました。

 私たちは次のように行ないました。まず文章を二つの部分に分け、一部分は夫が翻訳し、他の部分を私が翻訳し、その後、私たちは再び共同で相手の翻訳した部分を修正しました。最後に私たちは一緒に文章全体を読み、もう一度、最初から修正し直しました。全体の流れは見たところ簡単そうですが、私にとっては大きな一歩であり、これは私が交流したかったことでもありました。

 完璧を求める執着と 自らを卑下する心を取り除く

 私たちが行なった初めての翻訳体験文は、昨日の事のように覚えています。始めたばかりの時、明慧からこの任務を得ることが出来て、私は本当に喜びました。明慧のための仕事が、迫害の真相を伝える良い機会になり得るのだと、夫と私は思いました。私たちが初めての文章を修正し終わって数時間後に、この仕事をすることがいいアイデアかどうかを、夫に確認することはもうしませんでした。

 師父は「中には、煉功することが原因で離婚しそうになる夫婦もいます。しかし、なぜそのようなことが起きるのでしょうか? 多くの人たちはこのことを考えてもみないのです。あとで相手に、『わたしが煉功するぐらいでなぜあんなにかんかんになって怒るのか?』と聞いてみても、答えられません。『そうですね。あんなに怒ってはいけないのに、しかし、その時はついかんかんに怒りました』と、本人もなぜだか分からぬしまつです。それはどういうことだったのでしょうか? 実は、煉功する時、業力が転化されなければなりません。『失わないものは得られず』、しかも失っていくものは悪いものなので、あなたはその代償を支払わなければなりません」[1] と説かれました。

 しかしこの事によって、私たちの睦まじい婚姻生活に亀裂が生じ、私は絶望を感じ、頭の中が真っ白になりました。このすべての源は、私の私心と完璧を求める執着から来ていました。私は自分が翻訳するすべての言葉に心がきしみました。夫は私の翻訳のすべての修正箇所に対して、私自身の未熟さを感じました。こうして私の卑下する心が暴露されました。私は自分の仕事が認められていないと感じ、名を求める心の作用で「私の夫はどうして私の言葉を直すのか?」と怒りさえ感じました。

 夫が修正するすべての言葉、すべての字に心がきしみました。さらに私は自分の翻訳のために弁解しました。私は自分の意見を堅持し、たとえ夫の修正の方がもっと原文に符合し、もっとわかりやすかったとしても、私はそれを認めたくありませんでした。そして、あろうことか怒って泣き出しました。執着に直面した時は本当に苦痛でした。私は屈辱を受けていると感じ、しばらく経ってから、怒って部屋を出て行きました。

 しばらくして冷静になると、私は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[2] という師父のお言葉を思い出しました。

 私は依然として未練がましく思っていましたが、一口深く息を吸い込み、それから師父にご加持を求めました。私は自分の心の魔と執着に直面しなければなりませんでした。

 自分には何かをするにあたり、完璧を求める心があることを認識しました。私の翻訳の仕事はまさに、完璧を求める心などの執着心を暴露しました。完璧を求める心、この執着心は依然として存在し、さらに、私に圧力を加えました。私はできる限り最大の努力を尽くしましたが、やはり十分には出来ませんでした。うまく出来なかったという感情が私を苦しめ、そこで私はまた泣き出しました。私は何度も何度も無理やり自分を平静に保とうとしました。

 しばらくしてから夫と話しあって、私たちの校正を終わらせようと決めました。このような状況が多くの文章の翻訳過程で持続しました。最初の数週間、私は争い戦いながら、自分の翻訳のために弁解しました。編集者たちが行なう最後の校正は、当時の私にとっては大きな試練でした。私は何度も何度も「自分がうまく出来てない、なんてことはないはずだ」と疑いました。またしばらくすると、夫と多く話をすることにより、私はやっと自分の完璧を求める心が、各方面に体現されていることを認識しました。そして、少しずつ完璧を求める心などの執着心を取り除けるようになりました。

 自分に対し高い基準で要求しても 高く要求しすぎない

 明慧の毎週1回の交流について協調人が私に伝えた時に、この交流は必ず参加し、毎回の交流に必ずいなければならないと思いました。私の自分に対する要求は高く、必ず交流に参加しようと思いました。私は夜に仕事します。そうであれば、18時から21時の間に寝なければなりません。それから集団学法と交流に参加します。また、23時を過ぎて私は車で出勤しなければなりません。時には、早朝5時に仕事をいったんやめて、早朝の集団学法に参加することもあります。それから私はまた仕事をやり終え、午前10時ごろに家に帰ります。時には、交流の前に私は一睡もしないことがあります。

 自分に対する「交流の前に私は一睡もしない」などの要求により、日曜日の出勤しない日に、ほとんど丸1日寝ていなければなりませんでした。この時、私は全く発正念していないことに気づき、恥ずかしくなりました。また、時には発正念の時間の前に寝ており、目覚まし時計の音も聞こえず、また、時には発正念しながら寝ていました。

 明慧のために仕事をして数週間後、誠心誠意に仕事を全うしていないと私は感じました。そして私は責任感だけで行ない、そのことは翻訳にも反映されました。この状態を長く続けられないとわかり、変えなければなりませんでした。

 師父は「如何なることも最初はうまくできないところから徐々にできるようになり、だんだんと経験を積み重ね、または技術を習得できれば、上手にできるようになります。こういう過程があります」[3] と説かれました。

 私は「修煉は一つの過程であり、すぐに何事も出来るようになるのではない」と認識しました。また、私は疲れの感覚を取り除くことに執着していました。邪悪な勢力はこの執着を見つけ、さらにこの漏れを利用して、やって来ました。しかしそこでも私は、強い正念を発することが出来ませんでした。

 自分の漏れを私は認識し、人々が考えるところの疲れと眠さを取り除くことを、とても渇望しました。そして、私はこの心を放下すると、状況は良くなりました。

 同修に感謝し、この状況下でも、やはりできるかぎり文章をしっかりと修正しています。師父のご加持の下で、私も様々な執着を修めて取り除いたので、同修たちの文章に対する校正を私も受け入れることができました。

 修煉を第一位に置く

 初めての明慧交流の前に「私たちは必ず修煉を第一位に置かなければならない」と私は夫と合意に達しました。私の常人の仕事がいくらお金を稼ごうとも、明慧ネットの翻訳の仕事がいくら多くあろうと、自分たちの修煉に比べれば重要ではありません。そこで、毎朝学法することに決め、一講学び終えてから翻訳を始めます。

 師父のお言葉が、私たちの決心を固くしました。毎朝学法、煉功し、それから再び翻訳するか明慧の文章を校正します。このやり方がとても良いと私たちは感じ、自分が速く向上していると感じます。私たちの協力はとてもよくなり、さらにお互いに励まし合っています。

 私は文章を扱う方面で自分の向上を感じました。以前、私はいつもパソコンソフトに翻訳させ、それから再び文章に手を加えていました。現在(訳注:2019年)はパソコンソフトに翻訳させる必要があるモノのはいくつかの言葉だけです。修煉、学法と煉功を通じて、師父が私を加持してくださっていることを、とてもはっきりと感じています。ある日、特にはっきりと感じ、私は「こんなに短い時間でどうしてこんなにたくさんの翻訳が出来たのか?」と自問しました。それは師父と大法が私を前に推し進めてくださったのです!

 全体を形成し 共同で文章をしっかり校正する

 ある時、1編の長い文章を多くの時間をかけて翻訳しました。その文章をアップロードする時になって、初めて他の同修がすでにこの文章を翻訳し、アップロードしていたことに気づきました。私はその時、不思議さと憤りと衝撃を感じました。私は最初は私の翻訳もアップロードすべきだと思いました。こうすれば協調人や校正者がどちらの翻訳がよりよいか、決めることが出来るからです。しかし私はこの考えを否定しました。なぜなら、これは闘争心の体現であり、完璧を求める一種の体現であり、自分に対する肯定を他の人に求めることである、と気づいたからです。

 私は「なぜなら、トラブルは突然現われるかも知れませんが、決して偶然なものではなく、みなあなたの心性を高めるためのものなのです」[1] という師父が説かれた法を思い出しました。師父はこの悟りと向上する機会を私に与えてくださいました。夫と話して、私は自分が翻訳した文章をアップロードしないことに決め、さらに同修が翻訳した文章の校正に参加しました。

 校正の過程でまた新たな問題が出現しました。同修の翻訳原稿と自分の翻訳原稿の一つ一つの言葉に対して私は比較し、気づかないうちに、すべての段落を自分の翻訳原稿に書き換えており、同修の言葉はほとんど残っていませんでした。そのことに気づくと、「まさか自分の翻訳文に書き換えることが、私の目的だったのだろうか?」と驚きました。このような方法で自分の翻訳原稿を同修の翻訳原稿と差し替えたい、と思っているのでしょうか? このようなことはとてもよくないことです。なにしろ同修も私同様に多くの時間と精力をかけて、まじめに文章を翻訳していたからです。同修の翻訳は何の価値もないものなのでしょうか? 師父はこの機会を通して私の心を修めてくださいました。自分の心や師父の按排がわかると、自分の翻訳原稿を削除しました。そして同修の文章の校正が、私自身の翻訳の影響を受けないことを願いました。

 そこで私は再びこの文章に数時間の時間を掛かけました。校正する度に、自分には執着があるかないかをいつも見て取ります。自分の翻訳を同修の翻訳に置き換えようとしていないだろうか? 同修の表現方法が校正後も残せているかどうか? 時には表現方法が異なるだけで、同修の言葉は全く間違っていません。同修の表現方法は文章の読みやすさに影響したり、あるいは、原文の意味を変えているかどうか? 自分に対して掲げたこれらの質問を通じて、この同修と一緒に文章をしっかり書き上げることができることを私は希望します。

 私は「同修たちと共に努力することによって、初めて、こんなにも多くの同修の修煉体験と物語を明慧ネットを通じて、全世界に伝えることが出来るのかもしれない」と、認識しています。もし、私たちが自分の翻訳と校正に冷めた見方ができれば、そして、すべての翻訳者と校正者が自分の言葉遣いに二度と執着しなければ、私たちは全体で向上でき、さらに真相を伝えるために大きな貢献をすることになります。

 師父に感謝申し上げます! 親愛なる同修に感謝します!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」

 (明慧20周年法会の交流文章より抜粋、 編集)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/5/28/387649.html)
 
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