学法と研ぎ物
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文/署名無し  

 【明慧日本2020年10月5日】私が子供の頃「斧を研ぐことはきこりを誤らせない」という物語を読んだことがあります。ある老人が市場から刃のない斧を2本買ってきて、それを2人の息子に与えて木を切り倒したという話ですが、1人はそのまま斧を持って木を倒しに行きましたが、多くの力を使っても数本の木を倒しただけでした。もう1人は、時間をかけて斧を研いでから木を倒しに行き、結局数十本の木を切り倒したのでした。

 この話を思い出したのは、師父が時間が迫ってきたと説かれたため、それをもって、極端なことをして、法を学ぶのではなく、人を救うために毎日外に出かけて行って、最終的には邪悪に迫害されてしまう人がいるという文章を読んだからです。

 これは、学法することと斧を滞りなく研ぐことに類似していることに気がつきました。学法することは斧を研ぐことと同じく、結構時間がかかるように見えますが、実は学法することは、絶えず法に同化する過程で、そのため、私達の執着心や業力などを絶えず取り除くことになり、次元が上がれば上がるほど、邪悪は届きにくくなり、迫害されにくくなると同時に、私達が行っていることは法の威力を帯びています。常人は私達に救い済度され、私達に駆り立てられるのです。一方では、学法しなければ、気と気の間に制約がないかのように、私たちの力は弱くなり、人を救うことを多く行ったとしても、実際の効果は非常に乏しいことが多いのです。これは、斧を研がずに木を切り倒すことと同じではないでしょうか?

 この時点で、私は法を学ぶことの大切さを実感しましたが、それは師父が面倒がらず、嫌がらずに教えてくださっているからです。もちろん、真剣に学法をし、法が頭に入らなければならない、そうでなければ単なる形式的なものになってしまうのです。ある人は木を切り倒すためにはまず斧を研がなければならないと知っているが、斧を研ぐ時、身を入れて行わないので、彼らは確かに斧を研いでいるようにみえるのですが、実際に現れる効果は悪いです。このような斧を持って木を切り倒しにいったら、労力が大きくて効果が少ないのです。

 私たちの執着心は常に磨き落とされていますが、この磨くというのは、別の空間に実在するものです。斧の研削は肉眼で見ることができるが、執着心はどのくらい磨き落とされているかを肉眼では見ることができないのです、自分の感覚は、多くの場合、必ずしも正確ではありません。執着心は隠れたり、繰り返したり、増えたり、変化したり、ただ斧を研ぐよりもずっと複雑で、それが修煉の難しさにつながっているからです。

 本当に心を込めて法を学ぶことにより、他の二つのことを同時にしっかり行うことができるようになります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/10/1/412970.html)
 
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