明慧法会|不可能だと思われていたこと 
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年10月17日】私は1999年1月から修煉を始め、当時、息子は生後7カ月でした。21年が過ぎ去り、息子は立派な青年に成長し、私も中年になりました。この21年間師父のご加護の下、法輪大法の指導の下で返本帰真の道を歩んできました。人生を無駄にしていないことを思い、偉大な師父に対する感謝で胸がいっぱいです。

 1、『轉法輪』を暗記

 2005年頃から『轉法輪』の暗記を2年かけて3回したことがありますが、忙しくて2年後に止めました。

 私自身の修煉が行き詰ったようになったのは2015年末です。2人目の子供がまだ1歳になったばかりで、長男は高校生になっていました。子供の面倒を見るために私は仕事にも行けず、家計は苦しい状態でした。子供の世話をすると約束していた義母は何も手伝ってくれず、夫の兄弟も助けてくれないのに、よく私を嘲笑っていました。私の憤りは頂点になって、体にも多くの症状が現れ、特に左側の乳房が腫れて、液体が染み出て、左半分の体が寝られないほど痛くて、乳がんではないかと思ったこともあります。

 2015年の大晦日から、もう一度『轉法輪』の暗記をしようと決心しました。私は記憶力がいいので、暗記自体はさほど難しいものではありませんが、心身の不快な反応や焦り、多くのトラブルがおきたのです。座っても立ってもじっといられなくて、ベッドから立ち上がって客間へ、客間からまたベッドへと、頭が爆発しそうになって、顔と目が燃えそうに熱かったのです。しかしどんなに肉体的、精神的に辛くても、これは良いことだ、師父はこの形で私を助けて下さっているのだと自分に言い聞かせ、一日また一日、歯を食いしばって暗記を続けました。

 時には暗闇の中で涙を流し、かつての傲慢さを悔い改め、宇宙大法の前で取るに足らない自分の小ささが分かって、宇宙大法に畏怖の気持ちを抱きました。

 今回の暗記は6カ月もかかり、終わった日にぼんやりと座っていたとき、頭の中に「修煉者だ」という一念が浮かびました。突然「私は修煉者だ」という言葉の意味が分かりました。それ以来、暗記を止めたことはなく、私にとって学法の一つの方法になりました。

 だんだんと内に向けて探し、無条件に自分を探すことを覚えました。常人慣れした考え方を変え、修煉者の自覚を以て物事を考え、善良な心で周囲の人と接し、党文化の様々な現われも分かりました。いつの間にか、体が正常な状態に戻り、すべての不快感がなくなって、家庭環境も変わりました。長男は順調に良い大学に受かり、夫の給料も上がって、私も良い仕事が見つかり、子供の世話をするほかに、真相を伝えることもできるようになりました。親戚との関係も良くなって、夫の両親や兄弟も私を助けてくれるようになりました。『轉法輪』を一通り暗記する度に、体が古い殻から抜け出たようで、その気持ちの良さと内心の感動は言葉では言い表せないものでした。

 2、不可能と思われたいた、実刑判決を受けた同修を救出

 2011年秋、私の故郷で50人以上の大法弟子が一斉に拘禁されました。これまで何度も大法弟子の救助に携わってきましたが、一度にこれだけ多くの人が拘禁されたのは初めてでした。拘禁されてから6カ後、計35人の同修は不当に労働教養所に入れられ、それを知った日、私は朝から涙が出て多くのことを思いました。

 法輪功は私の故郷で早くから広まり、多くの人が修煉に入って、師父自ら行なわれた「9日間の講習会」に参加した弟子も多かったのです。しかし迫害が起きてから長年、全体の修煉状態が良くないため、とうとうこのような大人数の迫害が発生したのです。同修の間では様々な不満や非難、噂が飛び交い、おまけに事件を知った多くの常人たちは皆、一方的に法輪功の悪口を言いました。

 夫の了解をもらって、私は故郷に帰り、それから地元の同修と一緒に22カ月間にわたる救助活動を開始し、2013年10月に、一斉拘禁される中で14年の懲役判決を下された同修Aさんを救出しました。救出の難しさは想像できないもので、協力してくれるのはごく少数の同修だけでした。迫害を否定し、同修を救出することは、しっかり真相を伝えることが唯一の方法だと私は悟りました。

 まず警官に真相を伝えることです。警官は中国共産党(以下、中共)の体制内で仕方なく邪悪な仕事をしていますが、本性は悪くない人もいます。私は彼らを友人として扱い、いつも笑みを見せました。法輪功のことで警官と接触するため、当然、自然に法輪功のことに言及すると、警官らも自然に受け入れます。警官から悪質な扱いをされたことは一度もありませんでした。

 2013年の当初、私は妊娠7カ月の身となりました。同修から「他の人は妊娠したら、心身を安らげるために景色のよいところに行くが、あなたは妊婦なのに毎日刑務所に行くね」と笑われていました。結局、救出に関わったのは、私を含めて4人しかいませんでした。

 同修Aさんは不当に14年の懲役を言い渡されました。刑期の3分の1を終えないうちは釈放しない、命に関わる病気でない限り病院に移さない、などの規定があります。この事件を知った多くの常人は「刑務所から出ようと思うのはとても難しく、西から太陽が昇ると同じで不可能だ」と言いました。私たちはこのような現状に心を動ぜず、迫害を止めさせて衆生を救い、衆生に良い未来を与えたいという一心でした。

 その後、多くの警官が密かに私たちを助けてくれました。例えばある日、警官から非常に無礼な電話がかかってきましたが、しかし、それは巧みに拘禁中の同修の近況を伝え、また我々に次に何をすべきかを教えるための電話だったと分かりました。後日、その推測が当たったことが証明され、我々は、同修を救出することにいっそう自信が湧いてきました。警官は自分の立場があるので、公然と法輪功に同情する態度を表明をする勇気はありませんが、内心には善良が残っています。大法弟子として、彼らを正しい道に導引するのは我々の責任です。

 我々は多くのルールや規則を破り、不可能だと思われていたことを現実に変えて奇跡を起こしました。その過程で弁護士を雇い、一審、二審の判決を受けて、Aさんが刑務所に送られることに、前後7人の弁護士が関与しました。私たちの要求の下、法廷は「共産党員はこの案件を回避しなさい」と宣言までしました。Aさんも拷問に耐え、有罪の自白を決してしませんでした。娘が生後2カ月の時、娘を抱っこして最後に刑務所に行き、出所したAさんを迎えました。

 14年の懲役を言い渡されたAさんが2年未満で出所したことは、現地で大きな波紋を引き起こしました。修煉者はもちろん、大法に対していっそう自信が強くなり、修煉をやめたかつての学習者も何人かまた修煉の道に戻ってきました。このことは常人にも大きな衝撃を与えました。法輪功はすごい、賄賂もせずに14年刑期の人を救出した、さすが法輪功だと言っています。弁護士も感心して、後日また学習者に弁護を頼まれた時、依頼人を私のところに連れて来るように、「彼女には解決策がある」と言います。私は苦笑して、「私が解決策を持っているわけではなく、すべては我々の師父が行なわれたことです」と答えました。

 3、大法資料の製作と配ること

 迫害が始まった当初、私は家で資料を作る拠点を立ち上げ、地元の100人ほどの同修に資料を提供して、あっという間に7年間過ぎました。その時本当に忙しくて、週5日間働いて、2~3日をかけて資料を作り、また同修たちと配っていました。

 郊外に住む同修が少ない中、そこに資料を配りに行くと皆が相談で決め、最終便のバスに乗って郊外へ行き、沿線の集落で資料を配布しました。奇跡的に、毎回資料を配り終わったら、夜中でも車が現れて我々を家の近くまで乗せてくれ、だんだんと、自家用車を持つ同修も我々の行動に参加してきました。

 毎回行く前に、私は事前に下見をします。ルートを決め、全行程にいくつの村があり、各村にだいたい何世帯あり、どれぐらいの資料が必要か、車のルートはどうなっているか、同修がどこで乗り降りするか、多くの細かいことを考慮して事前にしっかり手配します。迷子にならないために、配る時、若い人と年配者でペアを組んで行動して大体月に1回行ない、一番多い時は3台の車で22人の同修が参加しました。

 毎回、感動的なことが起きています。ある日、私ともう1人の女性同修がペアを組んで、〇〇村で資料をポスティングして、「法輪大法が素晴らしい」と書いた横断幕を木にかけました。数日後、近くに住む年配の同修Bさんが私に「〇〇村に資料を配りに行ったの」と聞き、私は「はい」と答えました。その村にBさんの実家があり、実家の親戚がちょうど昨日訪ねてきて、「あなたたち法輪功はすごいよ、あの夜、突然白い服を身にまとった2人の美しい仙女が村に来て手を振ると、一瞬に各家に資料が入ってきた。横断幕は釣り竿でも届かないほど高く吊るされて、普通の人にはできない」と話したそうです。私はとても嬉しく、衆生は法輪功をこれほど尊敬しており、きっと救い済度されるに違いないと思います。

 実はその日、私の体調が思わしくありませんでした。その日はちょうど生理が来て、数時間歩いてポスティングしていたら、体に不具合が起きトイレに行かなければなりません。しかし農村のトイレには手を洗う設備がなく、手を洗わずに資料を配布することは不敬だと思ったので、ずっと我慢しました。家に帰ってみると、下着は多めに履いていたのですが、全部汚れていました。しかしその数時間の中で私は特に体に何の違和感もなく、それ以来、長年の生理痛がすっかり治りました。

 4、 真相電話をかける

 娘が生まれてから、私の修煉生活は大きく変わりました。娘を抱いて外に出て、真相を伝えることを試みたのですが、あまり遠くまで歩けず、長く抱っこして疲れました。そこで、2014年の夏、娘が生後13カ月の時、私は娘を連れて、4人の同修と一緒に車で移動しながら真相電話をかけることを始めました。車での移動は、居場所を警官に突き止められることを防げるのです。

 その後、明慧ネットから、携帯電話で真相を伝えることに関する技術や安全注意事項を多く勉強して、少しずつ上手になりました。

 電話をかける中、いつも心性を試されます。ある日、電話に出たのは某大学の大学院生で、私はドヤ顔で国内外に起きた時事を多く喋り、最後に「私はあなたと同じ専攻を学んでいたのよ」と自慢げに話しました。実際、大学を卒業後、その専攻と関係のない仕事にずっと就いて、専攻したものはとっくに忘れました。結局、相手に「分からない学問を分かるふりをする、あなたは嘘つきだ」と叱責され、最後に電話を切られて、真相を何も伝えられませんでした。

 その出来事をきっかけに、私は多くの執着心、例えば顕示心、闘争心、嫉妬心、自分のことを誰よりも優秀だと思う心、謙虚になれない心が見つかりました。その後、どんな人を相手にしても、私は謙虚で、尊敬する態度で話すようになりました。

 真相を伝える中で、多くの執着心に気づいて除去しました。常人に向けて真相を伝え、常人を救い済度すると同時に、知らず知らずのうちに自分の修煉がこれほど多くの人に助けられたとは、思いもしませんでした。

 5、地元の労働教養所を解体させる

 地元の労働教養所はまだ残酷に学習者を迫害しているので、同修たちはよく近くに行って発正念しました。2012年6月のある日、労働教養所に勤める警官の自宅住所を見つけて、彼らの家の近くで彼らの暴行を暴露する資料を配布すれば、きっと彼らの悪行を阻止できるとBさんが提案しました。良いアイデアですが、どうやって必要な情報を入手するのかと私は心配しました。思いもよらないことに、同修たちは積極的に行動し、とても早く警官らの個人情報をたくさん入手しました。

 ある日、私は偶然にある極めて凶悪な女性警官に会いました。労働教養所の中で、一番学習者をひどく殴るのは彼女だそうです。しかし会った日に、彼女は満面の笑みで知り合いに挨拶をしたり、道端にいるペットを楽しそうにからかったりしたのを見かけました。あんなに凶悪な人が、どうしてあんなに無邪気で優しい一面を持っているのだろうと、その時は思いました。学法の時にその疑問を同修の皆さんに話しました。「警官も普通の人間で、家庭の中では親であり子であり、普通の生活を送っている。しかし、労働教養所という特殊なところに入って警官の服を着ると、まるで共産主義の邪霊に憑かれたかのように、凶悪で残忍な人間になる。彼らを救うためには、労働教養制度と教養所を崩壊させ、警官らを悪い環境と悪霊の支配から解放し、普通の人間社会に復帰させるのが良策だ。それで、彼らはこれからきっと普通の生活を送り、普通の人間に変わるのよ」と同修たちは言いました。それを聞いて、無知の中で旧勢力に利用されて悪いことをしている警官らは本当に可哀想な人間だと感じ、同修の皆さんに慈悲心が生じました。

 3カ月かけて、数十人の努力の末、労働教養所で学習者に迫害行為に及んだことのある警官全員の自宅の住所を集めました。明慧ネットで警官らの自宅の住所を掲載したところ、労働教養所での迫害はほぼ一夜にして止まりました。後日釈放された同修によると、その日の朝、警官らが頭を垂れて出勤してきて、元気がなく以前の狂気を無くして、「どうなっているんだ、どうして我々の住所を知ったのか」と話し合っていたそうです。

 1年後、中国政府は労働教養制度の終止を発表しました。発表までの間、あの労働教養所で大法弟子を拷問する事件は一つも起きませんでした。

 結び

 20年はあっという間に過ぎ去りました。旅行もしないし、映画も見ず、高級ホテルにも行ったこともなく、まるで古代に暮らしているようだと同級生は私を笑い、思うように人生を楽しまず、無駄に生きてきたと思っているようです。しかし、20年間私は一つの信念のため、そのことを続け、命を犠牲にしても顧みない勇気に感心する同級生もいました。私は、法輪大法の修煉を選んだ20年の人生に対して少しの後悔もなく、宇宙の多くの生き物の中から私を弟子に選んで下さった師父に対して感謝しかありません! この20年を一緒に歩んできた同修たちに感謝しています!

 (明慧ネット第16回中国大法弟子の修煉体験交流会の原稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/4/395388.html)
 
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