文/アルゼンチンの大法弟子
【明慧日本2020年10月31日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
修煉を始める
私は26歳で、大法との出会いは高校最後の年でした。大学に進学しようとしていた私は、専攻を選んだにもかかわらず、未来に対して戸惑っていました。退屈な生活に不満を感じ、少し憂鬱で孤高で、嫉妬心もあり、同級生との間はギクシャクしていました。友人のダンスパーティーに行ってお酒を飲んだりして、彼らと同じことをやろうとしてみたのですが、しかしどれも浅はかで馬鹿げていると思いました。生きる意味を考え始めても、心の空白を埋められるものが何も見つかりません。法輪大法に出会って初めて人生の意味を理解しました。
私の知り合いにアルゼンチン人の漢方医がいて、彼に信頼感を持っていて、よく痛みを治療するために通っていました。彼から法輪功を紹介するパンフレットをもらいました。
法輪大法を修煉する前、私は無神論者でした。こんなに空虚な生活が何のためにあるのか、何もかも意味がなく、私は全ての存在を否定しました。私の高校の多くの先生が共産主義を吹聴し、その理念を生徒たちに伝えました。宗教から人生の意味に関する答えが見つからず、消極的な人生観を持つ私は、共産主義者が吹聴した「より良い世界」に惹かれました。今の私は、無神論や共産主義のイデオロギーが人類を滅ぼす悪魔だと分かりましたが、当時の私は分別できなくて惹かれました。幸い、私は幸運にも法輪大法に出会い、真理を見つけることができました。
修煉を始めた最初の数カ月、ただ煉功動作をするだけでしたが、胃痛、背中の痛み、不眠症など多くの不調が消え、体調が良くなりました。『轉法輪』を初めて読み終わった時に感動して涙が出て、心にかかっていた鎖が解かれたような気がしました。夏休みに私は師父の各地での説法を読みました。人生観がひっくり返ったようで、それまでの思想体系は全部空っぽになり、それまでの自分の世界が崩れていくのを感じました。法輪大法と出会ったことで真の法則、宇宙の大法を手に入れたと実感しました。
その数カ月間、私は喜びと戸惑いを同時に感じていました。人類学を学びたいと思って大学に進学した私は、ここで人生の目標と願望を実現したいと思っていましたが、法輪大法と出会ってから、自分が学んでいるものの多くは間違っていて、それは常人レベルの知識であり、理論さえも間違っていて、全く役に立たないものだと分かりました。どうしたらいいのか分からなくて、葛藤を感じました。
師父は「人類社会の中の有名人、学者、各種の専門家について、人々は非常に偉大だと思っていますが、実のところ彼らは常人ですから、いずれも、ちっぽけなものに過ぎません。彼らの知識もただ常人社会の現代科学が認識したわずかなものに過ぎないのです。厖大な宇宙の最もマクロから最もミクロに至るまで、人類社会はちょうど最も真ん中、最も外側の層、最も表面にあります」[1]と説かれました。
私は勉強家で、読書は私にとって、希望のない生活の救いのようなもので、いつも本の中に答えを求めていました。しかし大学の授業はつまらなくて、周囲の人のやっていることもつまらなくて、なかなか友人ができませんでした。地元の学法グループにも入らなかったので、寂しくて喪失感を感じました。修煉をしたいのですが、法輪大法は現実離れしたものだと感じて、心が空しくなり、どうしたら良いか分からず、大学を退学しました。退学を決めた瞬間、言葉にならない喜びを感じました。
情と欲望を取り除く
修煉前には、人々は愛のために結婚すると思ったのですが、今は1人の修煉者として、結婚について別の理解をしています。
修煉を始めた当初、「結婚しないとこれから一人ぼっちで修煉することになるのではないか」と不安に思ったことがあります。私が結婚したいと思った理由は幸せを求める願望であり、情という汚い物質だったのです。その執念が私の時間とエネルギーを消耗して、修煉から遠ざけていました。結婚しても、私はもっと良い人間にもなれないし、精進しても幸せにもなれないのに、何故結婚をしたいのでしょうか。結婚は運命と業力で決められていると分かった時、私の不安が消えて、背負っていた重荷を下ろしました。
師父は「執着を持って法を学ぶことは真に修めることではありません。しかし、修煉の中で自らの根本的な執着に徐々に気づき、それを取り除くことによって修煉者としての基準に達することができます。それでは、根本的な執着とは何でしょうか? 人間は世間にあって多くの観念を形成し、観念に振りまわされ、あこがれのものを追求しています。ところが、人間はこの世に来て、因縁で人生の道と人生の得失が決められているので、どうして人間の観念で人生の一歩一歩を決められるのでしょうか? ですから、それらのいわゆるあこがれと願望も、永遠に叶えられることのない、苦痛を伴う執着の追求となっています」[2]と説かれました。
現在の生活状態は自分の修煉にとって最適なもので、修煉に専念すべきだと悟りました。今、結婚したい念が浮かぶと、人生は何のためのものなのかと自分に言い聞かせています。
師父は「もし戻ることができるとすれば、最も苦しいことが、すなわち最も貴いことになります。迷いのまっただ中で、悟りに頼って元へ戻るよう修煉することは実に苦しみが多いのですが、戻ることもそれだけ速いのです。もしさらに悪くなれば、生命が壊滅されてしまいます。したがって、彼らから見れば、人間の生命は人間になるためのものではなく、返本帰真して、元に戻るためのものです」[3]と説かれました。
私にはとても好きな男性がいます。かつての私は恋愛小説をたくさん読み、愛とそれがもたらす喜びに憧れ、恋人と一緒にいる幸せを人生の目標にしていました。修煉をしてから、それは欲情だと分かり、その男性と話したい、一緒にいたいという妄想を抑えるように努力しました。思想業力は私の頭に多くの汚い考えを反映させ、その過程は大変でしたが、最終的に欲情を取り除きました。欲望についての法理も分かりました。
師父は「皆さんには心の準備をしておいてほしいのです。もし心性をしっかり守れず、一回乗り越えられなかったら、そこから真剣に教訓を汲み取らなければなりません。あなたが心性を本当に守れて、その執着心を完全に取り除くまで、それは繰り返し誘惑に来るものです。これは大きな関門なので、乗り越えなければなりません。さもなければ得道することはできず、修煉して成就することもできません」[4]と説かれました。
師父の言葉はとても私の心に響きました。執着心を放下する決心を固くし、心性を守れるまで、旧勢力は何度も何度も邪魔をしに来ます。またその経験から、どんな執着も大法の中で放下できることを実感しました。
師父は「今になって、なぜわたしがいつも皆さんに本を多く読むようにと言っているのか、皆さんもよりはっきりと分かったでしょう! 法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[5]と説かれました。
誰かへの愛や執着も物質だから取り除くことができ、それらのものを取り除いたら人間はもっと頭がすっきりして、もっと平和で理性的になります。それらのものは人間を左右することができるので主意識を修めることがどれほど大切なのか、師父の説法を読んで悟りました。
職場での修煉
しばらくすると、私は別の大学に進学して、同時に同修が経営しているレストランでアルバイトを始めました。当時の私は、まだ本格的に修煉を始めておらず、まだ常人のものを追求していました。私は人と話すのが嫌で、同修たちに信頼感を持たないので、オーナー(同修)に叱られて泣いたりします。ある日、重い角皿で料理を運ぶ時、動きが遅いとまたオーナーに叱られました。キッチンに戻ったら、オーナーは怒って「努力しない」、「遅い」と言って私に皿洗いをするように指示しました。私は何も言わず、お皿を洗いながら泣いていました。
なぜ動きが速くならないのかと考え始めました。人間誰もが自分のリズムを持っているので、自分もそうでありたいと思います。法輪大法を修煉しているので何事にも慌てず、不安にならず、ゆっくりと対応して、静かで穏やかであるべきだと思っています。また、他人に指示されるのが嫌だということにも気づきました。指示されると、自分が劣った立場になって、嫉妬と不公平を感じるからです。動きがもっと速くならないのではなく、虚栄心、他人に指示されたくない気持ちが引っかかっているだけだと分かった時、私の動きが速くなり、仕事も良くできるようになり、怒られることもなくなりました。
振り返ってみると、以前、私はとても傲慢な態度をとっていました。私のプライドが高く、オーナーは従業員のミスを許容できずにいつも怒っている、オーナーに比べて私のほうが心性が高い、とよく思っていました。
学法をしていく中で、レストランで働く時、自分もよく怒り、人に悪い態度を取り、指示されたらすぐに言い返し、人のミスを許さず、嫉妬心が強く、性格が悪く、怒りやすく、わがままで、怠け者で、責任感がないことに気づきました。それでも人より優れていると思って、人を見下している自分が目に浮かびました。
嫉妬心を取り除いて他人の良いところを見ようと自分に言い聞かせていた時期がありました。オーナーの良いところを見て、彼女の意見を受け入れるようになった時、状況も変わりました。ある日、オーナーが接客しているとき、オーナーの善良さが見えて、大法を広めるためにそこまで一生懸命になっていることに気づきました。オーナーの置かれていた環境が理解できるようになって、レストランを大法を実証するプロジェクトとして経営しており、同修たちのオーナーになることは簡単にはできず、大きなプレッシャーを抱えていると初めて理解しました。
私は多く学法するようにして、オーナーに「最近、仕事がすごくできるようになったね。学法をしっかりしているからですか」と聞かれて、「はい」と答えた時はとても喜んでくれました。
私心を取り除く
この職場環境の中で、相手を思いやる優しさを学びました。職場の他の同僚を見ていると、自分のわがまま、私心が見えてきます。彼らは優しく私を助け、すべての人を助けていますが、私はそうではなく、多くの場合、他人のことを気にかけず、自分のことしか考えていません。同修たちの影響を受けて、ここでの仕事は衆生を救うことにつながっていると自覚できました。それがここで働いて分かったことです。
師父は「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らないようにするために考えなければならないのです!」[6]と説かれました。
修煉者は大法を実証することをしていても、その背後に利己主義や私利私欲が存在しかねません。その一つは名を求める心です。接客の仕事をしてきたからこそ実感できました。以前、私は人と話すことが嫌いで、人と話す時にいつも恥ずかしくて不安でした。大法の法理に照らし合わせると、それは好かれたい、認められたいという名を求める心だと分かりました。今、お客さんと仲良くなり、自然に会話して真相を伝えられるようになりました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「智とは何か」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「圓満成就に向かって」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の著作:『法輪功』「第三章(心性を修煉する」
[5] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」
[6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
(2019年アルゼンチン大法弟子修煉体験交流会の発表原稿)