法の暗唱を通して心を修め 法の中に溶け込む
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年1月5日】私は2015年から法を暗唱し始めました。しかし、第四講まで暗唱して、進まずに諦めました。時間がかかり、非常に難しいことが原因です。でも正直なところ、ただ根気が足らず安逸を求め、急ぐ心が自分にあったから続けられなかったのだと思います。

 通読に戻ってから、読後何を読んだかあまり覚えていないと感じました。一講を読み終えても記憶が殆ど残っていませんでした。1~2講学法する日もあれば、3~4講学法するときもあります。とにかく時間があると学法しました。また、法を読む速度もますます速くなっていきました。しかし、学法した後はすぐに常人のような状態に戻り、何かトラブルが起きた際も、自分が大法の修煉者であることを忘れ、自分を修めることや執着心を取り除くこと、執着心を探し出すことができませんでした。そのため、何かあると、外に向けて探していました。ですが、外へ向けて探せば探すほど、解決の糸口が見つからず混乱しわからなくなり、苦しくて修煉していく自信を失ってしまうときがありました。

 このような状態がかなり長く続きましたが、自分がどこで誤っているかがわかりませんでした。三つのことは全てやっているし、かつ努力してやっていました。特に法輪大法真相を伝えるために毎日出かけ、一日に2回、3回出かけて「三退」を勧め、真相資料を配る日もありました。

 ある日、同修が重い口調で私に対して、「あなた、ちゃんと修めないといけない! 自分を修めないといけません!」と言いました。それを聞いた私は「私は修めていないというの? 他人に何か嫌なことを言われても、いじめられても、同じように言い返さずやり返さずにしているのに。それだけで十分ではないの?  十分いい人なんじゃないの?  良い人より良い人でしょ」と心の中で言い返しました。そんなときは師父の説法も思い出せず、法理に従って行動することもできませんでした。

 もちろん、法を学んで様々なことを知ることができたし、多くの道理を理解できたのですが、いざとなると、法で自分を指導することを忘れてしまっていました。「このままではいけない! どうすればよいのか?」と悩みましたが、「法の暗唱だ!」とひらめきました。

 2016年後半から、私は法の暗唱を再開しました。それから今日までやめることなく継続し、法の暗唱によって多くのことを体得しました。ここで大法が真実で超常的だということを実証したい思いがあり、「大法は高いレベルで宇宙を認識する知恵を与え、人の想像を超える境地に到達させることができる」という話を一つ、二つ、述べてみようと思います。

 私は法の暗唱を通して、師父がおっしゃった三千大千世界や宇宙の不思議、宇宙の繁栄、体が小宇宙であることを実際に体験しました。

 師父は「人間の身体も外の空間と対応しており、すべてにこのような存在形式が存在しているのです」[1]とおっしゃいました。こんな小さい人間の体がどう宇宙と対応するのだろうと以前よく理解できていませんでした。しかし、法の暗唱を通じて、「修煉者は修煉の過程で体(別の空間の体)が大きくなり、法に対する理解が深まり、執着心を放棄し、心性の向上につれ、次元も次第に高くなっていく」ということがわかりました。

 師父は「心性の高さは功の高さ、これは絶対の真理です」[1]とおっしゃいました。次元と境地の高低は修煉の果位の高低を決めます。この体の五臓六腑や個々の細胞はみな、一つの生命であり、一つの細胞が一つの世界です。その世界の中に無数の生命があって、体を構成している細胞が数えきれないほどあります。ですから、一人の人間が円満成就できれば、数えられないほどの生命を成就させられるのです!

 世間の万物は宇宙と対応しており、宇宙の各空間と同時に存在し、相通じています。そう考えてみると、この宇宙は本当に繁雑で、繁栄していることでしょう! 億分の一を想像しても、し難いものです。ただし、このすべての生命は大法によって創られた環境の中で生活しています。「大法は創世主の智慧です。大法は天地を開闢し、宇宙を造化する根本であり、中に含まれるものは極めて洪大かつ細微で、異なる天体の次元にそれぞれの現われがあります」[2]。師父がおっしゃられたこれも、私は認識できたし、体得もできました。ですから、私は師父の大きく深い恩情に対して人類のすべての言葉で言い尽くしても尽くしきれないのです。

 この長年の間、私は学法してきました。何を学んだのか、どのくらい理解したのか、本当に法を得たのかと、時々自分に問い詰めました。幸運に2016年、心から法を暗唱し始めました。こんな良い大法をもっと早く覚えていたらどんなに良いことだったのかと悔しい気持ちもありました。しかし、師父がこんな意気地なく、悟りが悪い私を見捨てず、啓発し励ましてくださり、やっと幸運な私はこんなたくさんの物を得ることが出来ました。

 法の暗唱で第一回目を終えたその日の夜、私は「赤くて大きなリンゴをもらいました」というはっきりした夢を見ました。二回目を暗唱した後、「かなり大きな赤紫色のリンゴをもらいました」と、前と同じような夢を見ました。暗唱した三回目を終え、また、同じ夢を見ました。これは師父が私を励ましてくださったのだとわかって、今日まで法の暗唱を継続することができました。

 法の暗唱によって常人が知り得ない道理がわかり、法の暗唱によって自分の一部の執着心が知らないうちになくなりました。法の暗唱によって、執着心を掘り起こし、芽生えた執着心をすぐに捉えて取り除き、私は徐々に修めることができました! 幸運にもようやく修めることができました! この過程で想像ができないほどの心血を師父は注いでくださっていたのです。よく自分を修め、師父の言うことに従い、三つのことをしっかり行うことで師父の恩に深く感謝したいと思います。

 一昨日、第四講の「業力の転化」[1]を暗唱した際、自分が法の中に溶け込んでいると感じ、突如「トラブルがないとどう修煉するのか」のより深い意味がわかりました。午後の学法で暗唱を続けるにつれ、絶えず法理が理解でき、自分が今後どう修めていけばいいのかがわかりました。

 続けて2~3日の学法も同じように、「心身ともに法の中に溶け込むこと、大法の法理で自分の修煉を指導すること、師父の説法の一つ一つに自分の行為を照らし合わせること、一つ一つの念や考えを修めること」なので、真剣に学法しないといけないことがわかりました。

 法の暗唱を始めたとき、師父は3回「文字の暗唱」、「内容の暗唱」、「法の暗唱」と啓発をしてくださいました。確かに、最初私は文字を暗唱しました。その後、内容を暗唱して理解するようになり、最後は、本当に法を覚えるようになりました。現在、法に従って自分を修め、師父の説法に従って自分を修めるようになりました。例えば、自我を修めること、忍を修めることなど、を実行しています。

 師父は「本当の修煉はつまり人の心を修煉するのです」[3]とおっしゃいました。法の中から、自分の人生はすでに変わり、修煉の道になったと知りました。この修煉の道は茨の道で、障害は執着心であり、それぞれの執着心の背後には、執着心を生む場があり、それは「自我」だと気づきました。私の次元では、修煉の主軸は「自我への執着」で、その「自我への執着」を取り除くことが修煉です。「自我への執着」から、嫉妬心、闘争心、顕示心、好奇心、自尊心など、多くの執着心が派生するのです。

 師父は「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」[1]とおっしゃいました。各次元で多くの執着心を取り除き、最終的に「自我」(偽りの自分)を徹底的に解体します。各次元で同じことを繰り返し、本当の自分が現れ、その本当の自分が自身の肉体を主宰し、その肉体の思想を主宰するまで続きます。あらゆる執着心を取り除くときには、まず我慢して「忍」を修めます。例えば、闘争心が出てきたら、まず怒るのを我慢します。顕示心が現れたときは、しゃべりすぎるのを我慢します。嫉妬心が出てきたら、嫌味を言わないよう堪えます。修煉過程を通して、この「忍」を修めなければなりません。当然、「修は己にありて、功は師にあり」[1」です。

 修煉の中で、私は「修煉者は常人の中で形成された個性を持っていて、修めるポイントも異なりますが、最終的にはすべて真、善、忍の中で正され、同化される」と体得しました。

 以上は、現在の自分がいる次元で悟ったことです。不適切なことがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願い致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「論語」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法』「シンガポール佛学会成立式典での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/3/415809.html)
 
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