明慧法会|衆生救い済度は私達の使命である(上)
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年1月10日】私は青年女性弟子です。1999年14歳の時、母と一緒に修煉を始めて今日に至りました。以下に私の二十年来の修煉経歴を師父に報告させていただき、同修と交流したいと思います。

 一、一切を放下して 揺るぎなく修煉する

 2000年9月末、法を実証するために私は母と一緒に北京に行き、10月1日、天安門広場で声高らかに「法輪大法は素晴らしい!」と叫び、その場にいた警官に連行され留置所に入れられました。母は1年の不当な強制労働を科せられました。私は未成年でしたので、裁判は免れましたが、法輪大法に対する信仰を放棄しないために9カ月拘禁された後、警官に現金3000元(約4万7000円)を強請され解放されました。

 不当に拘禁されている間、私は揺るぎなく信仰を守り、煉功を行い、迫害の実態を伝え続け、悪辣な警官の要求に応じませんでした。そのため度々、高圧スタンガンで電撃され、鼻から灌食され、手錠や重い足かせを掛けられ、独房に入れられるなど、多くの拷問を受けました。しかし、私は師父に守られ、乗り越えることができました。後に、私は大法の資料を配り、迫害の実態を伝えていた際に、数回の連行を受け、留置所や洗脳班で迫害を受けました。そして、二度の強制退学を受けました。

 私が拘禁されている間、父と親戚、市公安局長はあらゆる手段、慰めや騙し、脅迫、拷問などを用いて私を「転向」させようと企みました。私が「修煉をやめる」と書けば、解放され学校にも行かせると言いました。しかし、私達は「真・善・忍」を修煉していますので、自分の意志に反して嘘をつくことが出来るのしょうか?

 師父は、「いかなる圧力であっても、佛法に対して根本から確固としているかどうかを試しているのではないのですか? 根本から法に対して確固としていないのであれば、何を言おうと無意味なことです」[1]とおっしゃいました。私は、法輪大法が正法であることを知っており、大法を修煉するのは間違っていません。最終的に私は親族の情や将来に対する執着を放下して、揺るぎなく大法を修煉し、心が動じませんでした。

 我が家の生活環境はとても恵まれ、私は一人っ子なので、家には欲しいもの食べたいものはなんでもあります。強制連行を受ける前日に、私は牛ステーキと唐揚げを食べました。しかし留置所の食事は、腐った砂混じりのトウモロコシのおかゆと湯通しした数枚の野菜で、お腹を満たさない時もありました。拷問も受けました。こんなに大きなギャップがありましたが、しかし私の心には大法があり、師父のご加護がありましたので、乗り超えることができました。

 二、様々な環境下で同修と協力し衆生を救う

 1、大学生になって

 後に、私は省政府所在地にある大学に合格し入学しました。大学の近くに住む女性同修と間もなく連絡が取れました。私は毎週の終末に同修の家に泊まり、500部ほどの資料を作って月曜日から学校で配り、また自転車に乗って70~80部を配りました。1年間で1万部以上の資料を配りました。

 同時に、私は他の大学の宿舎に行って資料を配りました。時には同修と協力して各病院に行って入院患者に資料を配り、公園で資料を配って三退(中国共産党員、青年団、少年先鋒隊からの脱退)を勧め、自転車の修理や靴の修理、買い物の機会を利用して対面で迫害の実態を伝えて三退を勧め、ショッピングセンターの店員にも真相を伝えて三退を勧めました。

 2、山岳地帯で家を借りる

 2010年、私は他の都市の同修と結婚しました。結婚はとても簡素で、北京に住む伯母の家に数日泊まって新婚旅行としました。私たちの家族はどちらも経済的には恵まれていますが、しかし、多くの時間や精力、金銭を使ってはならないと思い、ウェディングドレスを着ることもなく、写真も撮らずにとても簡素に結婚式を済ませたのです。

 結婚後、姑は私達のために市内で130平米のマンションを購入してくださり、私の父も市内で200平米のマンションを持っていましたので、私達は二軒の家でよりよく三つのことを行い、自分の特技を発揮して、全力で真相を伝えて衆生を済度することを行いました。

 夫の職場は山岳地帯の近くにあり、仕事がとても楽で多くの場合は会社に行かなくてもよかったのです。しかし、私達は山岳地帯の衆生を救うために、広々とした二軒の家に住むことを放棄し、質素な古民家を借りることにしました。この古い家は汚くて虫が多く、部屋の壁の土が剥がれ落ち、ネズミが家の中を走り回っていました。この家は古い通りに面し、この通りの家々はすべて崩れ落ちていて、あちこちが廃墟と化していました。 ここは往来する人が少なく静かな環境なのを考慮して、資料を作るには便利だと考えました。そして私達はプリンター3台を持って行き、そこで資料を作ってその一帯の衆生を救うことができました。

 3、グループと協調する

 私達は市内の同修仲間を通じて、我が家の近くに住む同修を見つけることができましたが、ほとんど70~80歳代の年配の同修でした。彼らは長い間、独修の状態にありました。私達は我が家で学法グループを立ち上げました。週3日一緒に学法し、他の時間は一緒に衆生を救い済度しました。時には深夜11時頃、時には午前3時頃、集合して車で付近の村へ資料を配りに行きました。村に到着すると、2人が一組になって一軒一軒の家に資料を配り、下車した場所に集合しました。

 数年かけて、山岳地帯にある村々には何回も資料を配りました。毎週2箱、約500部の資料を配り、合計して数万冊の冊子を配りました。

 昨年(2019)のある日の朝、資料を配り終えて家に戻った私は、玄関を開けると驚きました。古い木の柱に優曇華(うどんげ)の花が14株も咲いていました。私は感動して学法グループの同修にも見てもらい、皆さんで奮起することが出来ました。これは師父が私達を励ましてくださっているのでしょう!

 一体感のある修煉環境の中で、皆さんは互いに関心をもち、修煉の上達がとても速かったのです。ある80歳代の女性同修は経済的に困窮し、わずかな年金100元(約1500円)で1人で生活をしています。この同修が住んでいる家は我が家よりも状況がとても大変でした。私はある日、この同修の家を訪ねた時、彼女はどうしても節約して貯めた500元を私に渡そうとし、衆生を救う資料代として使ってほしいというのです。この500元は彼女がどれだけ苦労して貯めたのかを私は知っていましたので、彼女のお金を受け取るのは忍びなかったのです。しかし彼女は、「このお金はあなたにあげるのではなく、人を救うためです」と話しました。それでも私が受取らないと、彼女は本気で怒りました。私は彼女の誠実さに負け、それ以上断ることができませんでした。

 この年配の同修は2年しか学校に行っていないのですが、毎日家で学法して煉功し、読めない字は辞書で調べ、修煉を緩めることはありませんでした。私は彼女に数冊のノートと数本のボールペンを渡しました。彼女は『轉法輪』をきれいな字で4回書き写し、他の経文も書き写しました。また第二式の功法「法輪樁法」の1時間の煉功を1年以上続けています。感染症の期間中、村がロック・ダウンされ資料がない時に、彼女は自分で200文字前後の文章を書いて周囲の村に配って村人を救いました。今まで200枚以上書いたそうです。文章にはいくつかの誤字がありましたが、彼女のその誠実な心に、私は本当に感動しました。

 4、特長を発揮する

 人をより多く救い資料を配り易くするために、私達はナンバープレートの要らない、赤い色の電動四輪車を購入し、「飛紅」と名付けました。私達は時々その四輪車に乗って往復300キロメートルもある、隣町に向って走りながら沿道の人々を救いました。道の途中で資料を配り、出会う一人一人に資料を渡し、私達はよく協力し合いました。1年後、1人の同修が運転できるようになり、この四輪車「飛紅」をその同修に乗ってもらうことにしました。

 そして、私達は同様の黄色い電動四輪車を購入し、「飛黄」と名付けました。この四輪車は前車と同じく運転しやすいのです。しかし、本当は若者は人目を気にしてこの四輪車に乗りたくないのですが、安全で多くの資料を配るために、私達はメンツや虚栄心を捨てました。

 「飛黄」に乗って出かける時、休む間もなく忙しくしていました。走りながら資料に糊を塗って張り付けたり、資料を配ったり、他の同修に運転してもらい資料を運んでもらったりしています。時には、私は車を運転し夫が対面で小冊子やDVDを配り、少ない時は数十部、多い時は100部以上を配りました。

 10月初めの長期休暇中に、私達は車で同修たちと一緒に、周辺の観光地の街路樹に1~2メートルの大きな黄色い横断幕を掛け、同時にスローガンを貼り付けました。正月になると私達は車で各村に行き、明慧カレンダーを配り、同時に三退を勧め、一度に数百冊を配ったので、効果がとても良かったのです。

 その後、私達はよく昼間に車を走らせ、各村に行って一軒一軒の家に資料を渡しています。師父のご加持の下で車を走らせながら資料を庭に投げると、確率良くほとんどが庭に届きました。心を込めて袋詰めした資料が、自らドアを通り抜け家の中に入る資料もあれば、奇跡的にドアノブに掛けた資料もありました。このように資料を配れば、効率良く多く配ることができます。ある日、資料を投げ入れた時、不注意で犬の頭にあたりましたが、その犬が吠えなかったのはとても不思議でした。

 「飛黄」はよく働き、すでに8年が経ちましたが、風雨の中で7万キロメートル以上走行し、人を救う過程で一度も故障したことがありません。「飛黄」で村に行くと、狭い裏路地に入ることができず、大通りしか配ることができません。私達は折りたたむことのできる電動二輪車を購入し、「飛馬」と名付けました。この二輪車は小さいので、いつも「飛黄」の後部座席に乗せています。村に到着すると、その「飛馬」に2人が乗り、狭い路地の家々に資料を配っています。

 (続く

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「誰のために修めるのか」

 (明慧ネット第17回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/13/414825.html)
 
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