明慧法会|衆生救い済度は私達の使命である(下)
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年1月10日】(前編に続く)

 5、全体を協調する

 ここ数年、私達は続けて各村の同修達と出会いました。彼らの村は辺鄙な場所にあり、長年、彼らと連絡が取れず、資料や『明慧週刊」を読むこともできず、法を正す進展についてこられませんでした。

 これらの同修を助けるために、一定の期間で彼らの村を周り、定期的に資料や『明慧週刊』を渡しました。同時に、明慧ネットが見られるように、法を正す進展について行けるように、パソコンのセッテングをしたり、無償でパソコンを提供したりしました。ある時期に私は当グループの数人の同修と一緒に、毎週、車を運転して曲がりくねった山道を1時間かけて、彼らの村を訪ねて一緒に学法をしました。この学法は、彼らの都合で来なくてもいいと言われるまで続きました。

 さらにある村に二家族が修煉しています。しかし、資料を配ったことはないそうです。私は彼女たちを車に乗せて住宅街に行き、一緒にビルに上がって資料を配り、彼女たちが表に出られるようにしました。

 その内の一家族の息子さんも法輪大法の修煉者で、私たち夫婦より2歳年上です。しかし、仕事が忙しいため、家を不在にすることが多いのです。年末のある日、彼が家にいる時、私達は彼と一緒に山間にある村に行き、一軒一軒の家に明慧カレンダーや小冊子を配りました。この同修はよく頑張り、恐れる心がなく、堂々と家に資料を届け、出会う人に渡しました。この村の家々は急勾配で、資料を配り終えると、皆の足が痛くなって歩くのが大変でしたが、私達はとても楽しく大満足でした。

 今年の大晦日、私達は夫の実家に帰りました。その晩、ラジオ放送で外出してはならず、2日から街がロック・ダウンになると言われました。これでは家に閉じ込められる、人を救わなければ! と私達は焦りました。その後の状況がどうなるか分からないので、私の実家に行くことにしました。2日の早朝、夜が明ける前に私の実家に到着しました。そして資料が作れるように紙を注文しました。私達は毎日のように数百部の小冊子や、名刺サイズのQRコード入りのカードを作ってラミネートして、毎晩、配りに行きました。

 感染症は深刻さが増し、ドアに掛けられた資料を、人々がウイルスを恐れて取ってくれません。この問題を解決するために、私は小冊子の表ページを、どのようにすれば感染症を防げるかの内容にし、目立つようにしました。ドアにかければ一目で分かります。

 私達と母(同修)は人を救いたい心があるため、毎日、何事もなく順調に出かけることができました。IDカードがないと入れない住宅街もありましたが、しかし、毎日、必ず資料が配れる住宅街がありました。地下駐車場から入れる時もあれば、自動ドアで入れる時もあり、住民について入れる時もあれば、簡単な書類を記入するだけで入れる時もありました。エレベーターのカメラに撮られないように、時には30階まで階段で登り、最上階から配り始めました。この状態はロック・ダウンが解除されるまで続きました。

 7、同修をリードする

 各地に恐怖心の重い同修がいて、恐れて人を救うことを行っていません。これらの同修は、衆生を救わなければ、自分の修煉が台無しになることを心配し、衆生を救いに行こうとすると恐れてしまい、にっちもさっちも行かずに苦しんでいました。さらに一部の同修は病業の中にいて、外出することができません。私達はこれらの同修に対してできる限りの助けを行い、三つのことを行う中で簡単で危険度の低い仕事をやってもらいました。例えば、小冊子を折ったり、ビニール袋に入れたり、コピーしたり、カードのラミネートをするなど、彼らができる仕事をお願いしました。こうすることで彼らは三つのことを行う事ができ、私達の負担も軽減する事ができました。彼らは喜んで行っていました。この期間中、私は技術を教えたり、資料を持って行ったり、完成品を持ち帰り配ることを担当しました。

 総じていえば、人を救うことができるのであれば、私達は、汚れることも恐れず、疲れることも恐れず、お金を使うことも恐れずにすべて行いました。衆生を救うことが私達の使命だからです。

 三、仕事を選ばず 空白を補う

 1、システムのインストールや機械の修理

 2005年、師父のご加持の下で、私達は奇跡的にプリンターの修理やメンテナンスを覚え、それぞれのメーカーのコンピューターの暗号化システムのインストールも覚え、小さな技術者になったのです。何年もかけて、コンピュータ暗号化システムのインストールや、プリンターの修理を数えられないほど行いました。最初の頃はキャノンの小型プリンターのメンテナンスをしていましたが、今では大きいサイズの印刷ができるヒューレット・パッカードの大型プリンターのメンテナンスをしています。師父は私に知恵を授けて下さり、多くの故障をすぐに直しました。手袋をつけると仕事がしにくくなるため、いつも素手で修理やメンテンナンスをしていましたので、手が汚れて洗っても落ちないのです。しかし、私はこのことを気にせず、機械さえ直ればいいと思っています。

 十数年来、システムのインストール、プリンターの修理やメンテナンスをするために、多くの場所を訪れ、農村も、都会も、遠いところは他の省まで行きました。とにかく私を必要とするところがあればどこにでも行き、師父のご加持の下で、毎回、順調に任務を果たすことができました。

 「人に授けるに魚を以ってするは、漁を以ってするに如かず」(飢えに苦しむ者には魚を与えるよりも魚の釣り方を教えた方がよい)という言葉があります。システムのインストール、プリンターの修理やメンテナンスをすべて私が行うのではなく、できるだけその地区の同修に学ばせ、私がいない時は、自分たちでできるようにしました。同時に能力と環境がある同修を手伝い、資料作りの拠点を立ち上げました。私は煩わしさを嫌がらず、学びたい人がいれば教えました。そして、安全に資材の購入ができる方法を教え、1人1人が独自に行えるようにしました。

 2、衛星放送のアンテナを取り付ける

 私が大学生の時、衛星放送のアンテナを取り付けることのできる同修が少なく、ほどんどが60~70代の年配男性だったのです。同修に協力するために、私は衛星放送アンテナの取り付け技術を学びました。年配同修と協力したり、時には他地区の若い同修と一緒にパラボラ・アンテナの取り付けをしました。

 寒さが最もきびしい季節になると、屋根には厚い雪が積もり、歩くと足が雪に埋まり、凍った瓦が割れないように歩かなければなりません。屋根の上に立って動けないのです。集合住宅は電波がいいので、パラボラ・アンテナの組み立ては屋根の上で行います。手袋をつけたままネジを閉める際に非常に不便で、設置したアンテナを押さえつける重石をも探さなければなりません。高く滑りやすい屋根によじ登りケーブルを繋がなければなりません。時には屋根の上で数時間いなければならず、寒さで手足が痛くなり、折り曲げることもできなかったのです。高層ビルの時もあり、階段の上りはとても難しく、とても辛かったのです。時にはビルの外部から4、5階まで登らなければならず、その高さからロープを降ろしてアンテナを吊り上げなければなりませんでした。真夏になると、暑さで顔が真っ赤になり、全身が汗だくになりました。私は女子学生だったのですが、師父に守られてすべての仕事を無事にこなすことができました。

 大学を卒業して地元に戻り、地元の同修の衛星放送のアンテナの設置や調整を手伝いました。結婚した後、アンテナ設置の空白地区があれば、パラボラ・アンテナの取り付け技術を同修に教え、衛星放送をその地区に普及させました。

 四、結びの言葉

 大法を修煉して21年が経ち、三つのことをよりよく行うために、私は(家庭の経済条件に恵まれているため)仕事をせず、大法を実証し衆生を救うことに全力投球してきました。法を実証する中で私を必要とする仕事があれば、名利を求めず、条件を言わず、報酬を求めず、ただ衆生を救う一心ですべてを行ってきました。

 同修が抱える問題を解決するために、食事が摂れない時もあれば、睡眠がとれない時もありました。何時も機械と工具を持ってあちこちの家に行きました。資料を背負い、今日は東に行き、明日は西に行き、訪ねる場所は都市もあれば、田舎もあり、高層ビルもあれば、平屋もあり、広い範囲に衆生を救う足跡を残しました。

 法を正す修煉は終わりに近づいています。修煉は漏れがなく、いかなる人心も天上に持って行けません。今後、私はさらに努力してよりよく自分を修め、自分の修煉に悔いを残さないように頑張ります。

 (完)

 (明慧ネット第17回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/13/414825.html)
 
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