再び根本的な執着を見つけた
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2021年3月10日】数日前、私の仕事の内容が変わりました。私はこの変更された仕事について、とても嫌で、やりたくないという私の根本的な執着に触れました。この根本的な執着はずっとよくない念を発しています。私はこの根本的な執着をどうやって取り除けばいいか分かりません。

 心が落ち着かないので、法を暗記しようと思い「正しきは彼 過ちは私」[1]を繰り返し暗唱しようとしましたが、何かに隔てられたように、何も頭の中に入らないように感じました。

 仕方がないので、私は明慧ラジオでミラレパの修煉の物語を最初から最後まで聞きました。この物語について、私は法を得たばかりの時2回読みました。その当時は、本しかないので、知らない文字があっても、一部の内容を理解し難くても、ミラレパが苦しみをなめて修煉する過程を理解でき、私は励まされ、佛を修めることに憧れました。20年過ぎて、今、もう一度ミラレパの修煉の物語を聞くと、ミラレパの修煉にもっと深い理解ができ、今日の正法修煉のために道が開き、創世主が衆生を救い済度するため、一層一層と下の次元に降り、生々世々で法を説かれた無量の恩を理解しました。

 物語の最後に、ミラレパ佛は大悪人を救い済度するため、その大悪人から渡された毒を飲み、さらにその大悪人の巨大な罪業を引き受け、その大悪人を心から悔い改めせました。

 この物語を聞いて、私は自分に向けて探しました。私自身は大法に作られた生命なのに、何故修めても、慈悲の心が現れないのでしょうか? 法の中に何でもあるのに、私は一体どこが足りないのでしょうか?

 私は心の中で引き続き深く探していきました。

 この時「それはあなたの心の中で修め、あなたの心を磨いて、自分の弱点、欠点を見つけ、全て根こそぎにしなければならないということです」[2]という師父の法が私の心の中に現れました。

 私の一番弱いところは何でしょうか? 人と接触したくなく、人付き合いが悪く、いつも一人でいます。なぜこのようになっているのでしょうか? 他人が話している内容についてあまり理解できません。私は学校に行ったことがないので、生活や普通の仕事について、理解できないことが多く、人前で話す勇気もなく、話すと、他人におかしいと思い笑われるのではないかと怖がり、自分が傷つくことを心配します。この心配があるから、私は一生懸命勉強しました。

 しかし、いろいろなものを勉強しましたが、すべて途中でやめました。私がやめたいのではなく、環境が私をやめるように促し、この巨大な執着を伴って本日まで歩んできました。法を正すプロジェクトの中で、私も同じようにいろいろ勉強して、残業したり、苦しみをなめ、トラブルがあっても、乗り越えることができ、根本的な原因は巨大な執着が自分の心を占めているからです。しかし、同修から「パソコンに触らないで下さい」と言われると、あとは雑役しかありません。私は怒りの気持ち、嫉妬心、恨む心などすべての心が出て来ました。私は雑役をしたくありませんでした。

 人間の理屈と天界の理屈は逆だと分かっていますが、しかし自分の心を変えるのはたいへん難しいと感じました。2~3日ずっと悩んでも、乗り越えられませんでした。

 この根本的な執着が満たされていないので、私はもう、何もしたくないという気持ちになりました。

 私はこの執着に向けて考えました。私はまだ名を求め、まだ人間の次元に居たいのです。そして生活の保障についても心配しています。雑役は誰でもやれる仕事で、自分の技能は何も役に立ちません。これは私に対して師父が按排された最も良い修煉の道だと信じていませんでした。師父が私にすべて按排してくださっていることも忘れていました。これは根本的に師父を信じるか、法を信じるかの問題です。

 ここまで考えて私は再び法を暗記し始めました。『轉法輪』九講の意念の所でずっと止まったままで、すでに2カ月経ってもあまり暗記出来ていません。この根本的な執着に食い止められていました。

 私は2日間通してやっと覚えました。この時私は自分に対して、何を捨てるべきかについて分かりました。また一つの高次元の生命も法に同化したと感じました。その感覚は言葉で表現できなくて、私の世の衆生が皆嬉しくて歓呼していると感じました。

 私は今まで一度もリラックス出来たことはありませんでした。常に「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」と叫んでいました。

 私の心性が向上してから、雑役をしていた時、手伝ってくれた常人が居ました。法と縁があると思って、真相のチラシと蓮の花の飾り物を彼にあげると、彼は「ありがとう、ありがとう」と言いました。

 また、ビルの警備員も態度が変わってきました。私がビルを出入りする時、熱心にドアを開けてくれました。私は、「仕事や、社会での地位と関係なく、修煉の道を正しく歩めば、誰でもあなたを尊敬する」と悟りました。以前トラブルを引き起こす心配があり、いつも気を付けて、いろいろな心配を伴って修煉していたので、いつも疲れを感じていました。正法修煉は本当にこんなに疲れるのでしょうか? その執着に触れたくないから、その執着自身が疲れを感じているのです。

 現在、すべての細胞がエネルギーを発していると感じています。トラブルはとんでもないもので、すべて業力によって作られたものなので、消去します。私は「大道は至簡至易である」[3]の一層の法理を理解しました。

 師父は、「それより更に高い次元になると、業力の消去や苦を嘗めることや、修煉などの概念もなく、選択ということしかありません! 宇宙の高次元ではこのような理であり、誰ができるのかを見て、その人を選ぶのです。これが理なのです」[4]と説かれました。私は「選択」についての深い意味を理解しました。

 私はこの体験を振り返って、本当に感動しました。大法弟子として、すべての神は羨ましく思われ、それは衆生の希望であり、他に何を求めるのでしょうか?

 私は師父が法を正す進捗が早く進んでいると感じています。師父は私が法を正す進捗に間に合うように、私の修煉状態を個人修煉から法を正す修煉に入らせてくださいました。

 ある日、私は退勤して、2人の同修を誘って、一緒にある難の中の同修と学法発正念に行きました。学法と発正念をした時、私は同修たちと一体になったと感じ、更に発正念をした時、唯我独尊の勢いが現れ、正念で山を切り開くと感じていました。長い間、この感覚がなかったので、米国の大統領選挙の時、発正念をしても、力を感じられず、厳しく封鎖されていると感じ、落ち着きがなく、頭の中に雑念がたくさんあり、排除できないように感じました。

 しかし、難儀の中の同修を助けた時、周りの状態が変わって、その原因について、私は個人修煉から飛び出して、法を正す修煉の流れに入ったからだと思います。私は偉大な佛法の法力を感じ、正法の中で洗われて、浄化されていると感じました。これは以前、「私は向上する」、「私は修煉する」、つまり「私」を強調する感覚とは全然違います。

 私は、師父が説かれた法「真の向上は放棄することであって、得ることではありません」[5]について、さらに深く理解しました。

 以上、私の最近の修煉体験です。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」
 [2] 李洪志師父の著作:『シンガポール法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『大圓満法』「一、功法の特徴」
 [4] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』
 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/17/420865.html)
 
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