時間を大切にすることについて
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2021年3月31日】昔から「一寸の光陰は一寸の金に等しい、一寸の金をもってしても一寸の光陰を買うことができない」と言われています。時間は金よりも貴重だということです。歴史上、成功を収めた人は皆、時間を無駄にせず、真面目に勉強してきました。 つまり、みんなが時間をとても大切にしていたということです。これは常人にとっての話ですが、私たち大法弟子にとっては、もっと時間を大切にしなければなりません。

 しかし、私は多くの時間を無駄にしてしまい、それを後悔しています。なぜなら、時間は逆戻りできず、永遠に戻ってこないからです。昨年、武漢で発生した疫病が急速に全国に広がった後、私はやっと時間の緊迫感を感じ、初めて三つのことをしっかりと行うようになりました。学法を確実にすることを前提に、同修たちと全体をなし、皆と協力し合って人々を救い、前よりも忙しくなりましたが、身体は意外とますます元気になり、ベッドに寝込むような病業の関は現れませんでした。それまでの二十数年間の修煉は、正直に言えば本当に恥ずかしいのです。三つのことを行ってはいますが、任務を完成させる気持ちで行い、終わった後いつも常人の友達とおしゃべりをしたり、同修と交流したりして、毎回たっぷり話してから帰るのです。

 このようにして私は、自分が時間を無駄にしていることを知らずに「中士、道を聞けば、存るが若く、亡きが若し」 [1]という段階に留まっていたのでした。 虎視眈眈と見ている旧勢力は手を緩めることができますか? 迫害をせずに気が済むのでしょうか? これが、毎年、病業の関がやって来る原因であり、時間を大切にできなかった痛ましい教訓でもあります。

 真の修煉者にとって、時間は限られたものであり、足りないのに、友人と世間話をしたり、同修と会ったりする余裕がどこにあるのでしょうか。師父が何度も法を正す時間を伸ばされたのは、一つには弟子たちが修煉できておらず、基準に達していないからであり、もう一つは救われるべき衆生の数が足りず、引き続き救わなければならないからです。今の時間は、師父が巨大な代価で、巨大に耐えられることによって引き換えられたものです。刑務所の中の同修は、一分一秒でも苦しみの中におり、ひいては拷問を受け、1日を1年のように過ごしています。私たちはこれ以上、時間を無駄にする理由はありません。時間を大切にしましょう。常人は「時は金なり」と言いますが、私たちは「時は命なり」と言います。

 修煉者としては、自分が誰であるかを知るべきで、普通の常人と混同してはいけません。常人はお金を稼ぎ、個人の欲望を満たすことに忙しく、自分の生活のために生きています。私たちはそのようにしてはいけません。本当にいけません。なぜなら、私たちには使命があり、大法弟子だからです。

 三つのことをしっかりと行うことを前提に、同修の皆さんはできれば毎日、明慧ネット交流文章を読み、できないなら毎日、明慧ラジオを聞くことをお勧めします。同修たちが心を込めて書いた良い記事は、私たちを励ますことができ、力と自信を与えてくれます。

 私たちは限られた時間を修煉や人を救うことに使うべきで、師父の苦心なる済度と私たちを選ばれたことに相応しくなければなりません。

 現段階の浅い悟りですが、法に符合しないところがあればご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/27/422556.html)
 
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