16年前に迫害されて亡くなった息子を思い出す
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 【明慧日本2021年4月16日】私の息子・叶浩(湖北省武漢市の中南建築設計研究所のエンジニア)は16年前、35歳の時に中国共産党(以下、中共)に迫害されて亡くなった。

叶浩

叶浩さん

 華中理工大学でコンピュータ学科を卒業した息子は、小さい頃から品行と成績共に優秀だったが、20歳の時にB型肝炎にかかり、薬を飲んでも入院しても治らなかった。夫が若くして亡くなり、私は2人の子供を育てた、その苦しみは言葉では表現できないものであった。

 1993年、息子は幸運にも、武漢市講堂で開催された師父の第4回説法講習会に参加することができ、それ以来、毎日ニコニコして公園での朝の煉功を休んだことはなかった。そして、半年もしないうちに、息子は健康になり、法輪大法の素晴らしさと修煉の殊勝を実感した。

 卒業後、息子は中南建築設計研究所コンピュータ部門のエンジニアになった。彼は仕事の中で「真・善・忍」の基準で自分に要求し、名利心が淡泊で、他人がやりたがらないことを率先して行い、上司や同僚から好評を得た。

 1998年の大洪水のとき、息子は自分の服や給料を何度も被災地に寄付した。人を思いやる心を持ち、親切な息子は私に「お母さん、あなたの私に対する気持ちを、すべての人たちに対しても同じようにすればいいですよ」と言ったことがある。

 1999年7.20、江沢民を中心とする中共が、法輪功に対する残忍な迫害を開始した。同年7月24日の夜、武漢地区の法輪功のボランティア担当者たちが突然、不当に連行された。7月25日、息子と数人の同修は省政府に行き、法輪功のことを関係指導者に説明しようとしたが、入り口で止められた。その夜、約1万人の武漢地区の法輪功学習者(以下、学習者)が次々と省政府を訪れた。その時、たくさんのパトカーが来たので、私たちは互いに手をつないだ。多くの学習者がパトカーに押し込まれ、私もその中の一人だった。

 その後、私は洗脳班に拘禁された。2000年6月16日、師父は新経文『圓満成就に向かって』を発表された。息子は経文をビニール袋に入れ、連行される危険を冒して経文を洗脳班に届けてくれた。私たちは新経文を見た瞬間、言葉にならないほど感激して、みんなで回して写し、すぐに暗記できた。

 それまで、息子はカナダで働くための準備をしており、手続きをしている最中だったが、中共による法輪功への残酷な迫害が始まってから、断固として海外に出ることを諦めた。

 2000年9月30日、息子と私は北京の国家陳情局に陳情に行った。10月7日の夜、武漢に戻った時、家宅捜索をされた自宅がめちゃくちゃになった光景を目にした。家に着いたばかりの息子は、水を一口も飲まずに再び列車に乗り、二度目の陳情のために北京に向かった。

 天安門広場で息子は「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」、「師父の潔白を返せ!」、「法輪功への迫害を直ちに止めよう!」の横断幕を広げた。一緒に行った11人の学習者はお互いを知らず、そのうちの9人がその場で連行された。息子ともう1人の山東省の学習者は、警官に見えなかったので連行されなかった。

 北京で、息子は馬三家労働収容所から脱出したばかりの学習者に会い、そこで学習者を残酷に迫害している話を聞いて、最も早いスピードで明慧ネットに投稿した。

 迫害のため、息子は仕事を失い、放浪生活をした。中共の公安局、610弁公室、国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関)は、5~7万の懸賞金をかけて息子を探していた。

 武漢に戻った後、息子は非常に困難な状況下で、資料を作り周辺地域の同修に提供していた。

 2001年3月、中共の関係者らが学習者になりすまし、息子を呼び出した。そして、大勢の警官らが息子を押し倒し、殴ったり蹴ったりして、さらに手錠をかけてパトカーに押し込んだ。その場面は恐ろしいものであったと、後に同修から聞いた。

 息子は労働教養2年を強いられ、何湾労働教養所に拘禁された。そこで、独房に閉じ込められ、殴打されるなどの様々な残酷な拷問を受けた。

 身体に大きなダメージを受けた息子は、解放された直後に肝臓の病気が再発し、長期にわたる嫌がらせを受けた末、2005年10月に亡くなった。

 2012年、私は懲役3年の判決を受け、刑務所外の執行となり、2015年に海外へ亡命した。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/14/423341.html)
 
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