文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年4月19日】1994年の前半、わずか1カ月のうちに、私たち職場の4人が相次いで亡くなり、この4人の中の一人は前日の夜に酒を多く飲み、踏切を渡る時に電車にはねられて命を落とし、ある人は朝起きたばかりで、倒れ込みそのまま起き上がらず、もう一人は長期間頑固な病気にかかり息を引き取り、さらにもう一人はどうだったのか私は覚えていません。
同僚のために惜しむと同時に、私は呆然とし「この人達は昨日まで出勤しており、今日はいない、さらに永遠に姿を消し、見えなくなり、この人生は本当に無常だ!」と思いました。誰がいつどのようになるか、誰がどれだけ生きることができるのかは誰にもわかりません。人はいったいなぜ生きるのでしょうか? どのように生きれば意義があるのでしょうか? 私は一生懸命考えました・・・
10月、同僚が私に法輪大法を紹介し、師父の説法の録音テープを私に聞かせ、私は2日間という時間をかけて16本の録音テープを聞き終えました。私は極めて大きな震撼を受け! 私が探していたものがやっと見つかりました! その瞬間は本当に言葉にできないほどの喜びで、人がなぜ生きるのかということと人生の意義が分かりました。
私は幼いころから体が弱く、母親の話によると、私は未熟児で、それは1963年初めで、中共が起こした大飢饉がちょうど過ぎ去り、両親は食べる物がなくいつもお腹を空かしていました。その年、私の母方の祖父が吉林省の農村からやって来て、祖父を見送る時、母親は、山を登り峰を越え、帰ってきた後に熱を出し、熱が高く加えてひどい栄養不足で、月不足で私は早めに生まれました。当時生きながらえることができたこと自体がすでに奇跡でした。それ以後の日々の中で、私の体はずっと弱く、いつ病気になるかわからず、一度寝込めば数日、さらには半月になり、両親はいつも心配していました。もし1週間病気にならなければ両親も安堵のため息をついたでしょう。少し大きくなり、私はひどい神経衰弱になり、鼻炎、低血糖、関節炎、指の各関節、腕の関節、足の関節がみな痛くなりました。夏、手を冷水につけられず、手を洗うのと、顔を洗うのはいつもお湯を使わなければならず、スカートをはくこともできませんでした。
師父の説法の録音テープを聞き終わった2日後、私は体が軽く感じ、すべての病気が消え、その年私は31歳でした。それ以後、私の精神状態はすっかり変わり、体の状態も変わり、私は世界で最も幸せな人間だと思いました。時間さえあれば、まじめに『轉法輪』という大法書籍を拝読し、この本の中で「真・善・忍」に基づいてどのように良い人になり、さらに良い人になるのかを師父は私たちに教えてくださいました。
大法を修煉してよい人になる
私はある中等専門学校(訳注:高校卒業生を対象とした職業教育を行う学校)の先生で、修煉する前は、仕事に対する態度は物事をごまかし、ほとんどレッスンプランを作らず、授業の準備もせず、学生に授業をする時のみ教科書を一冊持ってくるだけでした。学校の授業は大規模な授業で、1回の授業は90分で、私はたったの30分前後だけで授業を終え、残りの時間は、学生に自習させ、教室の中を行ったり来たりして、時間を過ごしていました。他の授業が終了すると、私のところも授業終了が待ちきれず、さらにその時間は本当の授業終了の時間よりも30分以上前でした。その後私は食堂にまっすぐ行き、早く行かないと自分の好きな料理が食べれないのではないかと恐れました。私の授業は1週間に2回しかなく、私はこのように毎週、毎月、毎年仕事をごまかしていました。
中等専門学校なので、この学校に来て学ぶ学生は私たちの副校長の言葉を借りれば「みな学習が好きではなく、理想的ではなく、年齢も低く、社会に出て行くのを父兄は心配し、私たちはこのような学校に来ているのだ。一つは卒業証書をもらうため、もう一つは子供の保育園にいれるため、時間をつぶすためだ」ということでした。進学率がないので、教師の授業にプレッシャーはなく、このような環境の中で、責任を負う教師は少なく、ほとんどがみないいかげんでした。出勤は遅く来て早く帰り、私にとっては都合がよかったのです。
私は大法を学び、社会にいようと、家庭にいようと、職場にいようといつでもよい人になるように師父は教えてくださいました。私はそれから時間通りに出退勤しまじめに授業の準備をし、レッスンプランを作りました。毎回学生に授業をするときいつも授業以外の内容を付け加え、学生の視野を広げ、理解能力を強めました。学生たちは「○○先生は本当に授業をするのが上手です」と言いました。個人の利益においても私は関わりませんでした。
大法を学んであまり経たないうちに、学校の教務課が私をクラスの担任に推薦してくれ、私は同意しました。もし修煉していなかったら私は同意しませんでした。なぜならクラスの担任になると疲れるし、苦労だらけだからです。中等専門学校の生徒は管理が難しく、生徒たちの心は学習にはなく、恋愛だったり、けんかだったり、お互いに協力し合い、いつ大勢でけんかになるかわからず、さらにある学生は外泊さえしていました。
クラスの担任になった後、私がまず考えたのは「私は責任を負わなければならず、多く努力をしなければならず、学生の期待に背かず、父兄の期待に背かず、学校の期待に背くわけにはいかない」ということでした。私は学校の近くに住んでおり、毎日朝早くから夜遅くまで働き、クラスの学生の全体の状況と一人一人の状態に注意を払いながら、学生と友人のように接し、クラス委員長を厳選し、品行の良い学生たちを学級委員にしました。朝、通学バスがまだ学校に到着していなくても、私はすぐにクラスに行き、あるいは学生の寮に行き、いつも学生とコミュニケーションをとり、何か問題が見つかればすぐに解決していました。午後教師たちはみな帰り、通学バスは行ってしまっても、私は家に帰らず、再び学生のところに行き、夜の自習の時私も学生と一緒にいました。
しばらくすると、クラスの学生の態度が大きく変わり、みんな勉強したがり、けんかすることもなくなり、恋愛もおさまり、勉強したくないので理由を見つけて休む学生が少なくなり、私との会話がが多くなり、さらに素晴らしいのは、朝の自習時間であろうと夕方の自習時間であろうと、私が教室にいなくても、授業が終わるまで、話をしたり「外に出たりする」学生はおらず、教室全体が静かでした。このようなことはこの学校では無かった事でした。別のクラスは自習時間の時話したり、教室の中を行ったり、来たり、、走り回ったり、遊んだり、時にはけんかをし学校の外に出ていました。
ある段階で、新しく来た女子学生が異常な振る舞いをしているのに私は気づき、時には外泊し、時には授業を受けにクラスに来ず、誰もどこに行ったのか知りませんでした。私がその女子学生と会って話をした時その学生の話がつじつまが合わないことに気づき、その学生の精神に問題があることに気づきました。私はすぐにその学生の父兄に連絡し、母親がすぐにやって来ました。その子の家族は農村にいて、会うなり、母親の顔に悲しみを感じました。母親は私に「2年前にこの子の父親が娘を何らかの理由で叱り、娘は泣いて悲しみ、いつまで泣いていたかわからないうちに寝てしまいました。翌日起きたら正常ではありませんでした」と話しました。両親は医者を探し、さまざまな薬を飲ませ、さらに「霊能力者」にも会いましたが、何の役にも立ちませんでした。両親とも毎日の生活は苦しみと心配の中にありました。なぜなら娘がいつも外へ駆け出し、家族も手におえないので、学校に送ることにしたのです。学校では先生がいて抑えてくれる思い、まさか又このようになるとは思っていませんでした。
私はその子の母親に法輪大法を紹介し、さらに母親に『轉法輪』を1冊と、師父の説法の録音テープを渡しました。私は母親に「あなたが真心を以ってこの本を読み、この録音テープを聞きさえすれば、あなたの娘さんの状況は変化するでしょう」と言いました。母親は希望を持って本と録音テープを持って子供を連れて家に帰りました。
数日後、学生の母親が喜んでやって来ました。母親は、家に帰ってから毎日本を読み師父の説法の録音テープを聞き、なんと母親自身が頑固なニコチン中毒をやめたと言いました。母親は以前毎日一日に1本(1本は10パック分)のたばこを吸い、さらにまたキセルも吸っていて、それはロベリア(訳注:インディアンタバコとも呼ばれる)で、そうでなければ耐えられませんでした。母親はかつて何度も様々な方法を試して禁煙しましたができませんでした。師父の説法の録音テープを聞き、数日後にタバコを吸いたくなくなり、長年の病気もよくなり、娘も正常に戻りました。母親はさらに、「夫が夜寝る時に突然息切れがして、死にそうになり、死ぬのではないかと不安で仕方ありませんせしたが、母親は急いで大法書籍を胸の上に置き、そして『この本だけがあなたを救うことができます』」と言いました。するとすぐに、夫は息ができるようになり、正常に戻りました。家族全員がみな大法に感激し、師父に感謝申し上げました。
クラスの担任教師になって必然的に学生あるいは父兄が送り物を送ってくることもありますが、私はいつも丁寧に断りました。ある時、ある父兄が車を運転して私に沢山の贈り物を届けに来たので、私はその父兄に「私は法輪功を修煉しており、大法の師父は私達によい人になるように教え、善意で人を助けるように教えて下さり、私はこの贈り物を受け取ることはできません。私は誰にでも親切にしなければならないのです」と心から言いました。最後に父兄は喜んで贈り物を持って帰りました。
職場全体が福報を得る
1999年7月20日、中共が法輪功に対する迫害を発動し、猛吹雪が天地を覆い隠すかのように人々を惑わすデマが全国のあちこちに広まり、すべての職場に文書が発行され、職場のすべての人の誰もが態度の表明を迫られました。
私と夫(修煉者)は職場で上司と同僚たちが公に認める良い人で、このような環境下で誰も良心をごまかさず私たちを違った目で見たりせず、上司と同僚たちはやはりこれまでどおり私たちを信用してくれ、いつの間にか私たちのストレスは軽減しました。
ある日の午後、教職員全員がみな会議室で会議を開き「書類を送達する」と言ったので、直感的に「絶対に法輪功への誹謗中傷を伝えるものに違いない」と思いました。私は行きたくなかったので「通達の文書は絶対にテレビと同じで、すべてデマで、私は聞きに行きません!」と言いました。同僚は「やはり行きましょう」と言いました。私は「行って、文書がどのようなデマなのかを聞いてみよう」と思いました。
会議が始まり、校長は前置きで何も言わず、副校長が文書を読み、副校長は機械的に読み、文書は大法と師父を誹謗中傷するものでした。師父が伝えられた法はすべてみな「真・善・忍」に基づいてよい人になるように教えているので、文書の中で師父のお言葉は引用されず、さらに師父のお言葉に追加したり削除したりし、あるいは文を編集したりして、師父がおっしゃったことだと言い、完全に師父のお言葉の意味を改変していました。もし師父の法を見ていなかったらごまかされ、だまされたでしょう。
私は毎日法を学び、師父の説法にみな比較的精通していたので、どのお言葉であろうと師父がおっしゃったことをはっきり覚えています。副校長が言葉を追加したり言葉を見落としたりして意味をゆがめた時、私は大声ですぐに中断し「違います! 大法の師父はこのように言われておらず、師父はこのようにおっしゃっています」と厳粛に修正し、それから私は師父のお言葉を一度暗唱しました。みんなは一斉に大笑いしました。続いて副校長が再び読むと、私が再び修正し、再びいっせいに笑い、このようなことが何度も繰り返されました。最後に副校長は舌打ちし、顔を紅潮させ、一言も読めなくなり、文書はまだ読み終わっていないのに会議は呆気なく終わってしまいました。
中共が法輪功を迫害し、巻き添えにし、もしどこかの職場に北京に陳情に行った法輪功修煉者がいれば、その上司は降職され、あるいは処分され、組織の評価にも影響を及ぼしました。
私は1999年10月、北京に陳情に行って不当に連行され、その後で地元の留置場に戻されて迫害され、市党委員会書記は上級部門から圧力をかけられ、自ら北京に行った私たち法輪功修煉者を公職からはずすように命じました。私たちの学校の校長と同僚たちは私を咎めなかっただけでなく、私のために心配してくれました。校長と事務局長はさらに自ら留置場に来て私に会い、私の憔悴した顔を見て、校長と事務局長は涙を流し「何を食べているのですか? なぐられたのですか?」と心配して尋ねました。
この間に、公安局が書かせようとした「保証書」の無理な要求に私はずっと協力しなかったので長期間拘禁され、拘禁されて6カ月近くの時私は絶食し、5日後に留置場から出ました。職場の同僚たちはみな続々と私を見舞いに来て、校長は私の手を握り「私たちの職場であなたたち2人がもし悪人であるならば、よい人はいなくなるでしょう!」と心から言いました。私たちの研究室の同僚はさらに私と娘を連れて遊びに行き、私を見送る、と言いました。私はすでに公職から外されたので、それからは同僚たちと一緒に仕事をすることができなくなりました。
2000年5月以後、私と夫は住居を追われました。私たちの職場はある学校の用務員(私たちはまったく不慣れ)で毎月いつも夫の給料が支払われると(その時はまだ給与カードを使っていなかった)私の妹のところに送られ、妹から私たちに引き渡されました。その後、私は指名手配され、公安局と国家安全局の人員が私たちの学校まで調査に来て、いわゆる罪状を羅列しようと企み、あるいは学校の人に手がかりを提供させ、簡単に私を捕まえようとしました。校長から先生まですべてが私をとりなすような話をし、私がよい人で授業が上手で多才多芸だ、と言いました。市の公安局の人員はさらに校長に電話をかけ、校長に私の夫を処分させようとしました。校長は市の公安局の人員を非難し「あなたたちに良心はないのですか! 彼の家には2人の子供がおり、あなたたちはすでに私たちに一人を処分するように迫り、さらに今回も処分を迫り、それでも彼らを生かすつもりがあるのですか?!」と言いました。
2007年、私は連行され、再び判決を受けました。ある同僚はさらに800キロ近く離れた刑務所まで私に会いに来て、私のために貯金し、同僚たちは私に会った時にみな泣き、私も感動して泣きました。私の冤罪の刑期が満了して戻ってきた時、校長を中心とした同僚たちが私のために歓迎会を開き、食事に誘ってくれました。私の娘が結婚する時にも同僚たちがみな祝福するためにやって来ました。職場内のほぼ全員がみな同情し、私と夫を心配し、みなこの重要な瞬間に法輪功に対する態度を正し、職場内の全員がみな福報を得ました。
私たちの職場は中等実業学校以外に、私立の中等専門学校でもあり、当時は全市でこのような中等専門学校はほとんどみな潰れてしまい、ただ私たちの学校だけが潰れていないばかりでなく、さらにランクあがり、市内のある大学など数校の有名な学校と合併して正式に大型の国立中等専門学校になり、職場の肩書はもともとの副部門レベルから正部門レベルに昇格し、全教員がもともとの最高位の職称がただ准教授にまでしか昇格できなかったのが正教授に昇格することができるようになり、私たちの校長は副学部長に昇進し、他の同僚たちもみな昇進し、オフィスを掃除するあの2人の労働者でさえ新しい職場で事務所の課長に昇進しました。
一家全員が大法の中で恩恵を受ける
私が修煉を初めて数カ月後のある日の晩、母親が座ってテレビを見ているのを見て「足を組んでるの?」と言いました。私の母親は少し太っており、足も少し太く、さらに本当に足を組むとは思わず、私は6歳の娘と師父の経文を読んでいました。しばらくして「あら! どうして私は腕がないように感じるのかしら?」と母親が言うのが聞こえました。私は「それは素晴らしいことです! 続けて足を組んでください」と言いました。しばらくして、母親は再び「あら! どうして私は足もないように感じるのかしら?」と言いました。私は「素晴らしいです! 再び続けて足を組み、もしかしたらお母さんはさらに頭もなくなったように感じ、体もなくなったように感じるかもしれませんよ!」と言いました。それから私と娘は眠り、母親はまだそこで足を組んでいました。
翌朝、私が煉功場から帰ってくると、母親が感動しそして不思議そうに私に、昨晩母親は足を組んで後半の方は本当に頭がなくなったように感じ体もなくなったように感じ足を組んで快適だった、と言いました。母親が足を下ろす時に奇跡が起こり、母親を30年以上苦しめた頑固な目の痛みがなくなりました。母親が私の妹を生んだ時、父親は職場が行った講習会の中で更正させられ、なぜなら私の善良な祖父が中共によっていわゆる「地主」に分類され、いつも街頭で批判され、父親も巻き添えを食っていつも講習会で更正させられ、毎日いつも家に帰れませんでした。一歳ちょっとだった私は体調が悪かったため夜中じゅう泣き、母親はまるまる7日7晩眠られず、目が痛くなったといい、特に徹夜した時とくたくたに疲れた時はさらにひどくなりました。
その日に母親は足を下ろした時目がとても涼しく感じ、以前のあのもうろうとした痛みがなくなっていました。母親が朝に鏡を見た時に目の中の薄い一層の膜がなくなり、本当に目も涼しげでした。それでこの病気が回復しました。十数年後、60歳の時身体検査をしに病院に行くと、医者は母親に「あなたは脳血栓にかかったことがあります」と言いました。母親は「私はかかったことがありません」と言いました。医者は再び詳細に写真を見て「ああ、体内で石灰化している」と独り言を言いました。医者は続けて「あなたは重い心臓病にかかったことがあります」と言い、母親は「かかったことはありません」と言うと、医者は再び「ああ、また石灰化だ」と独り言を言いました。
私の父親の肩関節周囲炎もひどく、私が修煉を始めた初期、ある段階で、父親は毎日いつも点滴を打ち、それでも好転しませんでした。ある晩、私は父親に『轉法輪』の本を数段読ませました。翌朝私に、夢の中で金色の円(実際は法輪)が飛んでくるのが見え、回って回って父親の手の甲のところまで来て回りその後は回りながら手の甲の皮を破り中の膿などの汚れた物を移動しそれから再び回り手の甲の皮を再び回りながら元に戻した、ということを言いました。父親が目を覚ました時肩関節がよくなり、痛くありませんでした。
私の妹は何をするにも不注意でした。ある日、妹は電気ケトルに水を入れてプラグを差し込み姑の家に行きました。翌日の午後に電気ケトルがまだプラグを差し込んだままだったことを思い出し、もしドライアウト(訳注:過熱状態になること)になったら電気火災を起こし、自分の家が燃えるだけでなく、上下階さらには集合住宅全体も巻き込むことになるでしょう。妹はすごく怖くなりました! その時突然大法を思い出し、妹は心の中で「何でもない、私の姉は法輪功を修煉しています!」と言いました。夜家に着くと、電気ケトルの中の水はまだ少しだけ残っており、ケトルはすでに電源が切れており、妹はケトルが壊れたのだと思い、再び水を入れて電気をつけてみると、結局電気ケトルは再び動き出し、実はこの電気ケトルには自動電源オフ機能はありませんでした。
ある日弟がオートバイに友人を乗せて道路を走っていると、突然小さな電動車が目の前を横切り、慌てて急ブレーキをかけ、2人とも衝撃で遠くに投げ出され、地面に倒れ、オートバイも遠くまで横滑りしていきました。弟が起き上がって見てみると、自分はどこもけがをしておらず、オートバイを見てもどこも壊れていませんでした。弟の友人は後ろの席に乗っていたので肋骨を2本折りました。
ここ数年来、私の家族が恩恵を受けた事例はさらに多く、一つ一つ例をあげられません。私の家族は師父に対して、大法に対して言い尽くせない感謝の気持ちを持っています。
2015年、私の弟、妹、娘、おいなどはみな実名で江沢民が憲法に違反して法輪功を迫害していることを告発し、家族たちの告発状はみな明慧ネットにあがっており、家族たちはさらに大法弟子を手伝って人々に真相を伝え、三退を勧め、効果もなかなかよく、旧正月あるいは師父の誕生日の時家族たちは新唐人や明慧ネットを通じて慈悲偉大なる師父にご挨拶を申し上げています! 家族たちはみな、師父はずっと家族たちを見守っていてくださる、という同じ感覚を持っています。
この大法があまねくあまねく伝えられている時代に生まれ合わせられ、またこの混沌とした世の中で、師父がおられ、大法があり、私と私の家族は非常に幸運です! 師父の慈悲なる済度に心から感謝申し上げます!