文/ニューヨークミッドタウンの若い大法弟子
【明慧日本2021年5月26日】
尊敬する師父 こんにちは!
同修の皆さん こんにちは!
私はニューヨークのミッドタウン学校で舞踊を学ぶ学生です。この学校に通って3年目になります。2020年1月、中共ウイルスが爆発し、全世界が隔離状態になりました。師父は去年発表された経文の中で私たちに教えられました。
「精進していない大法弟子、極端に走る大法弟子は直ちに、自分自身を正し、誠心誠意に法を勉強し、修煉してください。なぜならば、このような弟子は最も危険だからです」[1]
師父のこの話を一つのシグナルとし、私は時間を大切にするべきで、今の貴重な時間を利用して、自分の修煉を以前より更に良くし、最後の執着を取り除きたいと思います。今日、私は修煉の中で二つの最大の障碍を克服した体験を皆さんと交流したいと思います。
一、努力して怨む心を取り除く
私はずっと自分が寛容だと思っていました。いつも人とどんな衝突が発生しても、大小に関わらず、私はいつもなるべく微笑んで「大丈夫です」と言っていました。しかしながら、最近になってやっと自分が思っていた「寛容」と「心根が善良」はどれも本物ではなかったと分かりました。
衝突が発生すると、頭の中で幾つかの雑念が現れます。例えば、「彼はなぜ気をつけないのか?」、「彼らはなぜ私にこのようにするのか?」、「私はもっと良く待遇されるべきだ!」。このような心を長く持っていました。長くなるとそれは私の思惟の中でとても自然な一部分になりました。
時間が経つにつれ、他人の理不尽な考えから影響されないことはますます難しくなりました。衝突を引き起こしたのは、利己的な執着心や、その時の修煉状態が十分ではないためだと最初は思っていました。しかしどんなに努力して自分を改善しても効果がありませんでした。正しくない考えがずっと頭の中にありました。しかし、去年の8月19日、この一切が全て変わりました。明慧ネットで同修の交流文章『修めて怨恨心を取り除き慈悲が現れる』を見つけました。読み終えてから、自分の問題の答えが見つかったような気がしました。私は他人への怨む心を放下していなかったのです。
しばらくの間ショックを受けていました。私はなぜ最も基本的な法理である、「恨み憎しみを捨てれば、修めて慈悲が現れる」ことが分からなかったのでしょうか。もっと深く考えてみれば、師父は絶えず私にこの道理を分からせるよう啓示してくださっていました。しかしいつもこの啓示を見過ごしていました。
例えばあるとき、修煉していない姉と意見が相違したとき、私は最後に幾つかの傷つけることを言いました。姉は「これのどこが真・善・忍なの!?」と言いましたが、私は相手にしませんでした。またあるとき、友達のミスを誤解し、心の中で根に持って、私たちの関係にも影響してしまいました。このような状況が頻繫に発生し、自分が少し屈辱を受けただけで、終始納得いかず、マイナスな考えとめちゃくちゃな考えが頭の中に充満しました。私はずっと心の中でその人を怨んでいたのです。
私はすぐに発正念をし、頭の中の怨む悪念を取り除きました。
師父は説かれました。「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[2]
「怨恨」は、宇宙特性の「善」と全く相反しています。「善」は法輪大法の修煉者が従うべきものです。心に怨みを抱いていれば、師父の按排から逸脱してしまいます。他にも、もし人に対して怨みの気持ちがあれば、学法の形成に消極的な考えが出たり、真相を伝える活動で怨む言い方をしたりするかもしれません。それでどうやって修煉出来るでしょうか。どうやって大法弟子の使命を果たせますか? 私は必ずすぐにそれを取り除こうと思いました。
学法と発正念がますます多くなってから、その執着心に変化が生じたのに気づきました。学法のときリラックスするようになり、煉功のとき気持ちが穏やかで落ち着くようになりました。
最大の変化は、一切の事物の見方です。以前、怨みにより私の目に映るものが誤魔化され、何が起きたのかはっきり分かりませんでした。もし何か小さなことが起こっても、それを強烈な怨むで見たら、その事はとても厳重に見え、納得できないでしょう。しかし今、私は新しい角度で、更に良い角度で一切を見るようになり、それからは何の深刻なことも起きていません。
気づいたのは、私の大部分の執着は、全てが怨む心と直接関係していて、例えば、嫉妬、怠惰、尊重しない、安逸、我慢強くない、完璧主義などです。いったん怨む心を取り除いたら、それらの執着もだいぶ少なくなりました。自分の慈悲心が出てきて、何かを行うときも求める心はありません。
怨む心は、私にとって最も重い執着心の一つで、必ず取り除かなければなりません。私はまだ完全にそれを克服していませんが、私が出来るのは絶えず自分を良くしていくことで、師父は次のように説かれました。「われわれ煉功者においては、トラブルが突然現われることがあります。その時、どのように対処すればよいでしょうか? 平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」[3]
二、情を取り除く
「名、利、情」この三つは最もよく見られる執着です。情の執着も私の最大の問題の一つです。
師父は説かれました。「修煉は、錬磨の中でこそしなければなりません。常人の持っている七情六欲を放棄することができるかどうか、それらに対して淡々としていられるかどうかが問題です。どうしてもそれらのものに執着するのであれば、修煉を成就することはできません。すべてのことには因縁関係があります。人間はどうして人間でありうるのでしょうか? それは人間には情があり、人間は情のために生きているからです。肉親同士の情、男女の情、親の情、感情、友情など、何をするにしても情が重んじられ、情を切り離しては何ごともできません。やる気があるかどうか、気分が良いかどうか、愛しているのかそれとも憎んでいるのか、とにかく人類社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです」[3]
師父は説かれました。
「名を為る者は、氣恨むこと終生
利を為る者は、六親を識らず
情を為る者は、自ら煩悩を尋ね
苦しく闘い相って、業を造ること一生
名を求めざれば、悠悠自得
利を重んぜざるは、仁義之士
情に動かざれば、心清らかに欲寡し
身を善く修すれば、徳を積むこと一世」[4]
常人の社会生活の中で、ずっと幸せになりたいと思っていたため、強烈な情を生み出しました。この情はとても強烈で、とても取り除きにくいものです。いつも自分がそれを克服したと思ったら、次の日にはまた現れます。
心地よく過ごしたい、幸せになりたい、楽しくいたい、怠けたい、良くないことを言いたい、きれいになりたい、競争したい、友達がほしい、食べたい、眠りたい、満足したい、この方面の全てが情なのです。私はこれらの些細なことに執着するあまり、そのために修煉するようになっていました。
去年、(コロナの影響で)隔離のため家に帰されてから、この執着及び他の執着も弱まっていきました。他人から自分がどのように見られるのかをそんなに気にしなくなり、外見がどうとか、取るに足らない人間と見なされるとかも重要でなくなり、学法や煉功の時間も増やすことが出来ました。その時は修煉の障碍を克服したのだと思っていました。
しかしまた、頭の中で「違う、これで終わりではない。まだ先は長く、家にいて執着を取り除いたことにはならない」と思いました。現在良いと言えるのは、学校から離れた生活が心地良いからです。また学校に戻って、その全てが出てきたらどうなりますか? 私が今することは、徹底的にその執着を取り除くことです。どんな事に遭っても、良く行えるように準備しなければなりません。
このように考えてから、頭の中に暖かい流れを感じ、とてもリラックスし、悩みが無くなりました。これは私に正念が出たのを師父がご覧になって、頭の中の邪念を片付けて下さったとわかっています。
学法と発正念が多くなってから変化が生じました。情の執着は、他の多くの執着の助燃剤で、怨む心と同様に利己を引き起こします。抗鬱、執念、怨恨、嫉妬、顕示、それは修煉から逸脱する原因となっています。しかし、友達や家族が私に対して良くしてくれなかったり、面倒くさがられたり、他のことを優先されたりすると、私は鬱々として楽しくありませんでした。私はさらに自分の情緒に注意し、自分の身体をそれに支配されないようにしました。それから私の正念も更に強くなりました。
まだ取り除いていない情の執着もありますが、しかし私はずっと自分に気づかせて努力し、続けて修煉が向上するようにしています。
結び
師父の法を正すことが最後になるにつれ、私たちの修煉の時間も長くはありません。私は隔離の時期に多く努力し、自分を更に良くしようとしていますが、しかしそれではまだ足りないと思っています。先ほど話したことはただ氷山の一角にすぎません。いくつかの顕著な変化があっても、まだ多くの課題が残っています。私は過去の間違いをとても後悔していますが、それをさらけ出すだけでは不十分です。
私たちの身に起こる全てが私たちの修煉と関係し、毎回の試練と魔難は私たちのための進步になります。修煉とは厳粛なことです。ある時、私の修煉状態はかつてない低迷に達し、希望もなくしていました。幸いにも、師父が助けてくださり、啓示してくださいました。私の先生の1人で、同修でもある彼女は、とても感動することを言ってくれました。私がおかしいことに気づいた彼女は、話し合おうとしてくれていたようでした。そして彼女は言いました。「私たちは、師父が按排して下さった全てが最も良いものだと信じましょう。私たちはそれぞれ自分の道がありますが、しかし私たちは大法弟子であり、師父の大法弟子です」。私は彼女の話を覚えました。母も頻繫に私に言っていました。「私たちはただ自然に任せれば、一切が全て良くなります」
師父は以前、大法弟子であることは最大の栄誉だと何度も強調されました。障碍は必ずありますが、しかしそれはただ過程の中の一部分です。真・善・忍を原則とする手引きの下、生命は何よりも貴重で、毎回の機会と時間は全て意味があるのだと私は分かりました。つまり、大法のために衆生はこの世界に来て、私たちの人生の目的は返本帰真するためです。
私が重く見ていたものは、実際はどれも小さなことでした。例えば、私は将来神韻に行って踊れるか、成功出来るか、たくさんの友達が出来るか、幸福になれるのか等々です。明慧ネットで読んだ交流文章で覚えているのは、同修は文章の中でこのように書いていました。「事実上、私から言えば、修煉してどのレベルまで行くかはすでに重要でなくなりました。私は正法の中の一員ですから、私の生命はすでにとても意味があるのです」
現在、私はすでに体得しました。大法弟子として、法の根が私たち一人一人の心の中にあります。法の指導の下、私の悩みや腑に落ちないなどはすでに重要でなくなりました。私の生命は法輪大法の弟子になったことで意味のあるものになりました。
最後に、師父の詩を同修と共に学びたいと思います。
「大法を堅く修め心動かず
次元の向上こそ根本である
試練に直面し本性を見る
功成って圓満成就し、佛、道、神となる」[5]
私たちは皆、さらに大法を大切にして、この最後の過程で自分を向上させましょう。もし法に符合しないところがあれば、皆さんの慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『理性』
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の詩 :『洪吟』「做人」
[5] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「真性を見る」
(2021年ニューヨークオレンジ郡法輪大法修煉体験交流会の原稿)