深く隠された嫉妬心を取り除く
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2021年6月14日】最近、党文化と深く隠されている嫉妬心を取り除くことについて、幾らかの悟りがあったので、皆さんとシェアしたいと思います。次元と悟性にかぎりがあるため、不適切なところがあれば、皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 一、難と関の中で心を修める

 師父は『轉法輪』で、「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、われわれが修煉して圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」[1]とおっしゃいました。

 実はこの内容を繰り返して読んでおり、暗記もできますが、心から重視してこれを執着心として取り除こうとしていませんでした。師父は嫉妬心をなくさなければ正果を得られないとすでに強調されています。つまり、嫉妬心があれば、多くの仕事をしても結局何も得られず、修煉しても何も得られません。

 長い間、自分に嫉妬心が少ないと感じていました。会社の中でも誰ともトラブルを起こしていません。問題を指摘されても、いつも喜んで受け入れています。家で子どもをしつけるときや、同修である家族と衝突するときがありますが、大きな問題はありません。家族に情があるからこそ、トラブルが起きているのだと分かっていますが、修煉に大きな影響はありませんでした。この状態で、以前法を多く暗記していたため、グループ交流のとき積極的に体験を話しています。しかも時々、心性をしっかり守っていると褒められるので、嫉妬心を取り除くことに力を入れて修めていませんでした。このため、向上の機会を多く逃してしまいました。

 少し前、大法の仕事が忙しくて、安逸心に妨害され、なかなか突破できず、精進しようとしてもできませんでした。正念を発するとき手が倒れたり、蓮花手印のとき手を閉じてしまったりしています。その後、病業に妨害され、三つのことが深刻に影響されました。体が辛いなか、旧勢力は絶えず、私の空間場に私を消極的にさせる物質を投げ込んできて、初めて修煉が苦しいと感じました。心身ともに大きな圧力を受けています。

 ある日、同修のAさんからこう言われました。「あなたは以前、陰で私の噂話をしていました。口を修めてないですね。私の噂話をしているとき、あなたは強い嫉妬心を抱いていると感じました。私を助けたいのではなく、あなたは自分が正しくて私が間違っていると証明したいだけなのです」

 この話を聞いて、私はすぐ「本当なら申し訳なく思います。お許しください」と返事しました。これをきっかけに、真剣に嫉妬心と向き合うようになりました。

 私は彼女と知り合った頃から、私が言ったこと、彼女に対して生じた良くない念を細かく思い出すようにしました。そうすると、本当に嫉妬心の存在に気づいたのです。私はかつて彼女に嫉妬し、それが嫉妬だと分かっていながら、毎回その心を即座に掴んで、徹底的に取り除いていなかったのです。ですから、嫉妬心は長らく私の空間に留まっており、しかも徐々に強くなり、良くない物質を発散し、相手を傷つけてしまいました。私は師父に「私が間違っていました。嫉妬心が取り除かれていないため、相手を傷つけてしまいました」と反省しました。その後、Aさんと心を開いて交流し、心から彼女に謝りました。

 体に深刻な妨害が現れたとき、私は止むを得ず自身の修煉に現れた問題と真剣に向き合うようになりました。自身の修煉がよくできておらず、多くの修煉は表面にとどまっているという事実を認めざるを得なかったのです。私には嫉妬心があり、この嫉妬心は深く隠されているだけでなく、膨らみ続けていました。

 このことに気づいたとき、私は強い一念を発しました。「弟子に漏れがあるとしても、法に従いそれを正しますが、いかなる生命による妨害も認めません。押し付けられる全ての迫害は法に違反しており、決して認めません」。周りの同修も正念を発してくれました。私自身も学法煉功、正念を強化し、今回の妨害を乗り越えました。のちに、師父が業力の大部分を受け持ってくださったため、私は乗り越えることができたという夢を見ました。

 この心に気づき、それを取り除き、絶えず法に従って自分自身を正している過程で、多くの不思議なことが起こりました。人生で遭遇した多くのことは映画のように映し出され、数年前に起きたこと、私が話したこと、私が動かした念の背後には嫉妬心があったことが分かったのです。

 今、この心が表面まで浮かんできて、私は毎日それを掴むことができるようになりました。

 例えば、主人は娘にプレゼントしましたが、私にはありませんでした。「なんで私のプレゼントはないの? 娘はあなたに冷たく接しているのに」と文句を言ってしまいました。これは嫉妬心がぶり返されているのだとすぐ気づきました。

 家族が鍵を開けられなかったとき、私は「他の人ができるのに、なんであなたができないの?」と責めました。これも嫉妬心が原因で、私は相手を見下したのです。

 この理を悟ってから、もう一度嫉妬心に関する法を読むと、新しい理解を得られました。

 「わたしは法を説く時、嫉妬心の問題によく触れます。なぜでしょうか? 嫉妬心は中国ではきわめて強烈に現われており、すでに日常茶飯事になっていて、自分でもそれと感じられないほど強烈なものとなっています」[1]の部分を読んだとき、自分の修煉が良くできて嫉妬心がなくなったのではなく、この心が強すぎて、この心のどこが良くないのか自分自身も分からなくなったほど強かったのです。どの考えが嫉妬心に由来しているのかも分からなくなったのです。

 また、「気功師が講習会を開いても、そこに坐って聞いている人の中には、『なにが気功師だ。言っているのは俺が聞きたくもないことばかりだ』と認めようとしない人もいます」を読むと、これは私のことを言っているのではないかと、はっと気づきました。私は他の人の交流を聞きたくない時があります。この部分は私のことを指摘しています。これは嫉妬心で、取り除かなければなりません。

 私はまた、この心の根源を突き止めました。小さい頃、内気な性格だったので、嫉妬心を招きやすいのです。最初の就職先はホテルでした。私は模範社員に選ばれました。理由は性格が良く、接客態度が素晴らしいからです。しかし、家では家族とよく喧嘩していました。家族から、外面(そとづら)ばかり良いじゃないかと怒られました。党文化の影響で私の性格は二面性があります。これも嫉妬心が生じる根本的な原因であり、私自身も気づくことができませんでした。

 その後、営業の仕事に変わり、毎日、顧客を相手に仕事をしていました。そのため、自分が内気な性格と自覚せず、嫉妬心について深く考えることもなかったのです。営業の仕事を長くすると、常人のセールスの技術が身についたのです。常人社会も「良い営業マンは挫折に強く、つまりツラが厚くならないといけない」と言っています。仕事中、お客さんは機嫌が悪くなると、言葉もきつくなります。このようなことを多く経験すると、私は徐々に怒られてもなんとも思わなくなりました。普通の批判や非難は私の心を刺激することができません。私はいつもそれを一笑に付し、冗談を言ってその場をやり過ごしています。しかし、これは常人の中で養われた処世術で、私の心は動じず、私もそれによって変えられることはありませんでした。そのため、私の執着心は深いところに押し込まれ、なかなか気づかず、向上できる機会を失っていました。

 二、着実に修煉する過程での向上

 ある日、ある同修から「あなたはたくさん法を勉強していて、暗記までできてますが、意味はありません。あなたは着実に修煉していないし、自分自身を修めていません。あなたは法を得ることができず、向上もしていません」と言われました。この話を聞いて、私は呆然としました。なぜなら、私もこの同修に同じことを伝えたかったからです。

 なぜお互いに対する認識が同じなのかを考え始めました。この時わかったのです。相手にある執着心に気づいたとき、それはまさに自分の空間場に同じ物質が充満しているからです。相手もまた然りです。ですから、相手に問題があると気づいたとき、相手に本当に問題があるのではありません。師父は相手の問題を通して、私が自分自身を修め、向上するようにと言われています。

 私はまたもう一つ長期的に存在する観念に気づきました。つまり、いつも法をもって相手を量り要求していることです。学法または明慧の交流文章を読むとき、「これは誰々のことを言っているのではないか。これはあの人の問題にぴったりだ」と思ったりするのです。他の人がトラブルに遭っているのを見て、私は口では言いませんが、心の中で「小さなことも乗り越えられず、かんしゃくを起こしたりしていて、功を伸ばせるとでも思っているのですか」[1]と相手を見下しています。法はすぐに頭に反映されましたが、相手を量っているのであって、自分を見ているのではありません。

 トラブルのとき、相手に責められ、私は口で「分かりました。次は気を付けます」と言っていますが、心の中で「今の人間は何かトラブルが起きた時に、まず責任を人に転嫁し、人のせいにします」[1]と、すぐにこの法を思い出しています。やはり人を量ろうとしています。これは言っていることと考えていることが違うということではありませんか? 党文化の「言動不一致」ということではありませんか? これは「真」からずれており、嫉妬心の表れでもあります。その後、このような念は多くあり、毎日のように頭の中に浮かんできます。対抗しきれないとき、師父に助けを求めています。また正念を発して根絶するようにし、この念が浮かんできたら、それを否定し滅しています。最近、この心が弱まっていると感じています。

 今回の魔難を経て、私は師父の深い慈悲を感じました。私の巨大な業力を滅してくださり、同時に私の正念を呼び起こし、修煉の厳粛さに気づかせてくださいました。心を修めることをおそろかにしないよう常に自分に厳しく要求しています。長い間、党文化や嫉妬心を取り除くことができず、口を修めていないようでは、自身の業力を滅することができないだけでなく、周りの環境とプロジェクト全体にも悪影響を与えてしまいます。

 学法を通じて悟りました。党文化と嫉妬心のある人は真善忍の基準と一致していません。真からずれている人は、往々にして言動不一致であり、または事実を誇張して伝えたり、自分がいかに優れているのかを顕示しています。簡単に約束しますが、それを果たそうとしません。このような人は善ではないのです。善であってもそれは偽善なのです。自分が善であることを見せびらかそうとしていますが、本当に相手の角度に立って物事を考えていません。忍はなおさらです。このような人は自分の考えと違う人、出来事を容認できません。いつも法をもって相手を量り、自分が相手より優れていると思っています。いつも自分は正しい、相手が間違っていると証明しようとしています。これはいずれも旧宇宙の生命の「私」のための特性の表れです。私はこの「私」から抜け出す過程で、あることが分かりました。つまり、修煉したいという心があり、真剣にこれらの執着心を取り除こうとすれば、実際に良くないものを取り除いてくれるのは師父であり、師父は絶えず良くないものを取り除いてくださっています。

 今、トラブルの場面を見たとき、私は「なぜ私にそれを見させたのか」と考えるようになりました。師父は「人を罵ろうと思う者も、急に考えを変えて、やめたりします。ただ正法修煉のエネルギー場だけが、このような役割を果たすことができます。ですから佛教には昔から、『佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる』という言葉がありますが、そういうことを言っているのです」[1]と説かれました。私の修煉が良くできていれば、私の場が正しくなり、このような場面に遭遇しないはずです。ですから、すぐ自分の問題を探すようにしています。

 普段、他の人にある良くない心を見たとき、私はそれを私の問題だと捉えています。なぜ私にそれを見させたのか、まず自分を見れば、本当に自分の問題に気づくことができます。相手のやり方や言い方を理解できない時、「自分も以前このような状況だったのではないでしょうか。全ての修煉者には宇宙大法を正しく悟る方法と過程があるからです。なぜ私の考えに従わないといけないのでしょうか。宇宙の法は果てしなく大きいので、全ての良くないものは正されます」と考えるようになり、瞬時に相手を寛容に思う気持ちが現れ、相手を受け入れ、理解することができるようになりました。

 私は以前と同じ仕事をしていますが、心境や考え方に大きな変化がありました。なぜなら宇宙の法が私を溶錬しているからです。これはすなわち法の偉大さなのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/11/352379.html)
 
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