自己への執着を捨てる
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文/カナダの大法弟子

 【明慧日本2021年6月28日】私は、自分がグループ全体に協調し、協調人に頼まれたことは何でもできたといつも思っていました。文句を言ったこともありません。自分では満足していましたし、師父が仰ったことはやったつもりでいました。しかしある出来事に遭遇し、自分の執着心が露呈しました。私は自分自身を手放しておらず、真の無私に到達していなかったのです。

 ある時、英語版エポックタイムスの配布を約束した後、別の協調人から「もっと重要なことがあります。神韻の宣伝グループに参加して、神韻のために正念を発してほしいのです」と頼まれました。私は新聞を配りたくなかったので、これは私の希望通りでした。私は新聞を配るチームに、別の仕事を引き受けたので、もうチームの一員にはなれないと伝えました。

 私が新聞を配りたくなかったのは、それが法輪大法を広めるにあたって最良の方法ではなく、そして新聞を配ることで疲れてしまうからです。自分の決断に何の問題もないと思っていました。神韻は重要なプロジェクトであり、私は現地の協調人に頼まれたことをやっただけです。

 その後、新聞配布チームの同修が、私が心変わりして約束を果たさないのは「真・善・忍」の原則に反していると指摘しました。そこで、私は自分の内面に目を向けてみました。そして自分は興味のある大法のプロジェクトに参加していることに気づきました。自分の身勝手な執着も見つけました。新聞を配ると、皆んなでガソリン代を負担しなければならず、行かない方が節約できたのです。私は協調人に頼まれたことを口実にして、自分の我ががまを隠していたのでした。

 さらに内側に目を向けると、新聞を配ることについて同修の間で意見が分かれていることによる対立を避けたいという気持ちもありました。このような執着には、心の内面を探して初めて気づいたのです。

 ある日、同修から「一緒に法を覚えませんか」と言われました。私は記憶力が悪いと思っていたので、断りました。そして法を読むからと言って正当化しました。それからしばらくして、その同修からまた一緒にやらないかと誘われました。ちょうどこの時、別の同修が私に参加したいと言ってきました。私は、これは師父の啓発かもしれないと思いました。そこで私たちは、毎朝1時間半、正念を発した後に法の暗記を始めました。

 暗記にあたり、私は同じ段落を何度も読み返しました。すると、以前は法を読んでも理解できていなかった法理を理解することができ、法を暗記することへの理解が深まりました。今、私は毎日法について新しい経験と理解を得ています。法を暗記するために他の修煉者を按排してくださった師父に感謝いたします。法の暗記により、私が今正しいと思っていることは、私の利己主義から生じているようだと気づきました。他の修煉者と協力するにあたり、自我を捨てていなかったのです。

 法を覚えることで、正しいと思っていた多くのことが実は間違っていたことに気づきました。私は、自分自身を捨てていなかったのです。

 地元の協調人から、新聞を配ることについて何度も相談を受けました。しかし、私はそれを気にとめることもなく、参加もしませんでした。最近になってまた協調人から、新聞の包装を手伝ってほしいと頼まれました。私は自分自身を向上させなければならないことを理解していましたので、了承しました。

 向上するということは犠牲を払うことと理解していたものの、心の中にはまだ疑問や自分への執着がありました。例えば、新聞を包むとき、同修の中には理不尽な人がいると思っていました。ある同修によると、毎週木曜日に新聞を包むのに8、9人の同修が関わっているとのことでした。そして私は、毎回3、4時間で済むなら他のプロジェクトに影響を与えないと思い、承諾したのです。

 しかし、すぐに私が向上する機会が訪れました。ある日、何人かの同修が来なかったため、4人で9人分の仕事を終わらせなければならなかったのです。いつもより多くの時間がかからざるをえませんでした。他のスケジュールに影響が出てしまい、私は不満でした。

 私は協調人に、新聞を包むことが私のスケジュールに影響していると訴え、もしこのような状況が繰り返されるのであれば二度と来ません、と言いました。

 そしてある日、私が法を学んでいると、師父は「小坊主はつね日ごろ苦労しているので、業を滅することが速いし、悟りを開くのも速く」[1]と説かれていました。

 私はふと、もっと苦しい思いをして、もっと多くの業を滅すべきだと思いました。すぐに私は考えを改め、どんなに時間がかかっても新聞を包むことを続けることにしました。

 私は、いつもよりも早く、より多くのことができるようにと、再び新聞を包みに行きました。しかし実際に行ってみると、たくさんの人が来ていたために作業はすぐ終わってしまい、前回の遅れを取り戻すことができました。

 自分の心が変われば、物事は変わるものだと思いました。葛藤があるとき、自分の心の中を見つめることで、それは解消されると学びました。そのために師父はいつも私たちに内に向かって探すことを教えてくださるのです。今までの私は、自分の内面に目を向けていませんでした。今回は、この面で自分を向上させることができました。

 もうひとつ、心性を向上させる出来事がありました。協調人から、手元の仕事を早めに終わらせて、3時間ほど新聞を配ってほしいと言われたのです。私は、朝10時に家を出て夕方5時に帰らなければならず、弁当を持っていくか外食しなければならないので、最初は抵抗を感じました。しかし、よく考えてみると、これは向上するチャンスだと思い、承諾しました。

 この出来事の後で、私は自分の心性が向上したと感じました。その日の座禅は、とても心地よく感じました。これが修煉者としてやるべきことだと思いました。ただ座って法を学んでいるだけでは、自分を向上させることはできません。なぜなら、師父は私たちに三つのことをしっかりと行うように求めておられるからです。

 自分の向上に満足していたとき、別の観光地で新聞を配ってほしいという電話がありました。

 私は承諾しました。私は、より多くの人々の良心を目覚めさせたいという気持ちで、その場所に行きました。通りすがりの人に挨拶をすると、9割の人が新聞を受け取ってくれました。2時間で5束の新聞を配りました。協調人が来て、新聞が早く配られていたのを見て、「これは師父の励ましです」と言っていました。この経験で、利己的な心を捨てて自分の心性を向上させることが本当の修煉だと思いました。

 師父は「大法弟子が修煉する目的は円満成就することです」[2]と説かれました。

 私たちが精進し、共に向上し、より多くの人々の良心を目覚めさせることができるようにと願っています。

 師父、ありがとうございます! 同修の皆さん、ありがとうございました!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『台湾法会へ』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/25/421336.html)
 
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