容姿を端正にするのは、美しさのためだけか
■ 印刷版
 

文/劉一淳

 【明慧日本2021年7月12日】幼い頃、「行儀の良い人間は立つ時も座る時も姿勢を崩さず、食べる時にテーブルマナーを守るように」とお年寄りに教育されてきました。その時は、行儀を守ることの深い意味を知らずに、表面の美と醜、教養と粗野の違いだけだと理解していました。大きくなってから、仕事から帰って着替えずにリビングのソファに横たわったり、スリッパを履いて出かけたりしています。街を歩いていると、髪を乱しパジャマを着て街に出る人、長い髪を延ばした男性、穴が開いたズボンを穿く人、ドクロマークが付いた服、靴、帽子、リュックサック、アクセサリーなどはどこでも見かけます。今日、古典を読んで、「立つ時は立つ姿勢、座る時は座る姿勢、食べる時は食べる礼儀を守る」という言葉に込められた深い意味がよく分かりました。

 男は恭しく、女は美しい

 『尚書・洪範』には、五つの重要なことが書かれており、一つ目は「外貌」です。男は恭しく女は美しく、上下と貴賎はそれぞれ異なり、老若は秩序正しく、行動は規則を守り、手を合わせてお辞儀をする時に太鼓を抱え込むように、などと書かれています。

 服装といえば、中国古代の皇帝は山と龍の文様、諸侯(大名に相当)は火の文様、大夫は斧の文様、士は「己」の字形の文様の服を着用し、道徳が高尚であればあるほど、律儀をよく守ります。出かける時に乗る馬車も、行進の速さも身分によって違うのです。

 「人を敬って礼儀にあえば、恥を遠ざけられる」と孔子は言います。容貌や衣冠の乱れは、内心から礼節と道徳を失ったことの現れで、不吉なことをもたらします。

 中国の古代社会では奇抜な服装をし、若しくは男性が婦人服を着る、女性が紳士服を着る、或いは身分に合わない服装や装飾品を身につけ、奇抜な化粧をすることはすべて「服の妖」と呼ばれています。『漢書』には「風習が狂って礼節が変われば、奇怪な服を着る人が現れ、これは服の妖という」と記されています。

 雑色で奇怪な衣服は、異常事態の兆し

 『左氏伝』の記載では、愍公2年、晋の献公は申生太子に冬に軍を率いて出征せよと命じ、また申生に左右の色が違う服を着せ、金塊を付けさせました。

 晋の大夫はこれにため息をついて、「太子が出征する時期や、服装、装飾品のいずれも身分と出征の成敗を明示している。大王は、太子を疎遠しようとしているのだ。太子を信頼するのであれば、純正色の官服を着せ、忠心無二を象徴する玉を身につけさせ、年明けに出発するようにと命じたはずだ。冬は寒く草木を枯らす季節で、冬の出征は無成を予告する。ブロック状の黄金は冷たい決別を意味し、雑色の服は冷めた感情を意味する。大王は服装と装飾品で太子を疎遠にし、太子はもう頼れる人がいない」と言いました。

 もう一人の大臣は、「出征する人は太廟で命令を受け、神社で肉を祀って、決まった服装を着るべき。今、太子は正式な礼服を得られず雑色の服を着なければならず、大王の思いは聞かなくても分かる」と言いました。

 またもう一人の大臣は、「雑色の奇怪な衣服は正常でないことを示し、金塊は帰って来ないことを象徴し、大王は太子を害することを考えている」と言いました。4年後、申生が無実の冤罪を受けて自殺したことはまさに「服の妖」の一説を裏付けました。

 「愁眉」、「涙化粧」、妖怪のような衣服は災いを招く

 桓帝の時、都の女性は細く曲がった眉を描きました。哀愁の事がある時に思わず眉をひそめることに因んで、これを「愁眉」といい、両眼の下にファンデーションを薄く塗って涙目のようにし、これは「涙化粧」といい、髪の毛を真ん中でなく頭の左側か右側に結い、これは「堕馬の髪」といい、歩く時に腰をひねり、笑う時はまるで歯が痛いような表情をします。

 これらの化粧や髪型、歩き方などは、最初に大将軍・梁冀の妻によって行われ、都で風行し、中原地域にまで真似されました。これは「服の妖」に近いのです。梁冀家は二代にわたって大将軍を務め、皇室と結婚し、一時、天下の実権を握りましたが、数年後、梁氏一族は全員処刑されました。

 『文献通考』の記載によると、唐王朝の末期、都の女性は髪を顔の両側に分け「椎髻(ついけい)」のような形をして、当時、「家離れ髪」と呼ばれています。椎髻は中国の少数民族にみられる、まげの一種です。頭髪を後方に垂らし、先端を槌のような形に束ねたものです。当時または瑠璃を原料にかんざしを作るのが流行っていました。瑠璃は「流離」を連想され、「家離れ」も「流離」も帝王の災い、社会不安定の徴候です。そのため、「家離れ髪」と「瑠璃のかんざし」は「服の妖」とされました。

 男性は女装すると、威儀を失う

 前漢の末、天下は大乱して、当時の皇帝、更始帝は北上して都を洛陽に移しました。洛陽の民は更始帝を迎えに来た時、更始帝が連れてきた士官らはみな庶民の頭巾をかぶり、刺繍入りの半袖の女性服を着ていた光景を見ました。

 洛陽の人々はその光景を嘲笑う人もいて、驚いてその場を離れた人もいました。長老たちは、「服の妖が現れたのは不吉な兆しであり、まもなく災いが皇帝に降りかかるのだ」と嘆きました。その後、更始帝は戦に敗れ都を捨てて逃亡し、反軍に斬られました。

 時は後漢王朝に入って、初代皇帝の光武帝は部下を連れて洛陽に来て公務を処理する時、昔の漢官と同じ冠服を着て入城しました。洛陽の役人はこれを見て、生きているうちに漢官の威儀を拝見できると喜んでいました。光武帝は前漢末期の混乱を終結し、後漢を築き、漢王朝はさらに200年続きました。

 天は道義を用いて人間の行為を規範しているので、人間が天を敬い道徳を重んじれば、災いを避けて通ることができます。人が自分の姿を道徳と礼儀に合うように整えることは、天地を敬い、祖先、国君、師長を尊敬することの現れです。同時に、そのように慎む人はきっと欲望と魔性を抑え、徳を守ることができるのです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/25/427370.html)
 
関連文章