北米の新しい年配学習者:大家族の中での修煉
■ 印刷版
 

 【明慧日本2021年8月17日】私は西洋人の大法弟子です。もう少しで70歳になります。2014年に長女から大法を教えてもらいました。私は一気に『轉法輪』を読み終え、これは本当に修煉を教える本だと分かりました。私たちは直ちに地元のほかの法輪功学習者(以下、学習者)とコンタクトをとり、一緒に学法煉功を始め、地元の活動にも参加するようになりました。

 修煉を始めた当初の2年間はいろんなことを経験しました。私は天目が開いており、ぼやけていますがいろんなものが見えます。体が軽くなり、エネルギーが体内にあることを感じています。師父が体を浄化してくださり、私はいろんな変化を感じました。たくさんの心性の試練を経て、私はさらに良い人になりました。

 私の娘は2015年にニューヨークに引っ越し、それから私は2人の孫の面倒を見るようになりました。孫は20歳と21歳です。私は6人の子供と19人の孫に恵まれています。さらに5人のひ孫もいます。末の娘がアラスカから電話をかけてきて、生まれたばかりの子供の面倒を見てほしいと頼まれたとき、これは師父が按排された道であり、私が修煉し、自分の衆生を助けるように仕向けてくださったと分かりました。そこで娘と家族と一緒にアラスカに引っ越し、私も20歳の孫と車で2500マイル離れたアラスカに行きました。

 私は一人での修煉に直面することになることを事前に分かっていました。アラスカには1人だけ大法弟子がいましたが、この子はまだ高校生でした。私は自分一人で、三つのことを行い、精進しなければならないと考えました。当時私は常人と一緒にいると、修煉し続けることと、正念を保つことは決意が必要と感じています。まさしく師父がおっしゃったように「常人社会で修煉していれば、常人社会に染められてしまうか、常人があなたによって変えられてしまうかのいずれかです。必ずこのようになります」「1」

 私は修煉で苦しい状況に直面しました。自分のその安逸への大きな執着にぶち当たったのです。私は何度も煉功の時間を短縮したり、口を修めることができなくなったり、感情的になったりしていました。孫たちが溺愛され、そのため人への敬意が欠落し怠惰に陥ったのをみて大変心配しています。私はいつもこの子たちを正そうとしているばかりで、少しも慈愛とやさしさがありませんでした。師父は常に人に対して優しく接するようにとおっしゃっていましたが、私はいつも怒っていて、簡単に言い合いになりました。

 ある日、14歳の孫がその母に、お祖母さんは自分のことが好きじゃないと言いました。これを知った私は大変驚きました。うちに向かって探すと、私はこの子が普段やっていることを良く思っていないことが分かりました。この子の普段の服装、髪型、聞いている音楽など、いずれもよくないのですが、今の腐敗した社会では特に間違いとも言えないものです。私は大法を代表して家族に接しているので、より良い人にならなければならないのですから、私は優しくなるべきです。多くの家族への怒りは自分の情から生じたものであり、私は忍と善が実践できませんでした。

 私の心構えが変わってから周りの環境も良いほうに変わり始めました。今思えば、自分を怒らせることが起きた場合、必ず自分の中に原因があるということです。実際そうです。トラブルや言い合いになったとき、私はいつも先に自分を見るようにし、自分を変えるようにしています。まさしく「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」と師父がおっしゃったとおりです。

 およそ1年前から私の足に業を滅する状態になりました。歩くときは足が不自由に感じます。足の痛みが自分の坐禅にまで影響し始め、私はこのため結跏趺坐ができなくなりました。また、皮膚からできものも出てきました。長い間私は自分の修煉に問題があると感じています。うちに向けて探すと、いろんな執着心と観念が出てきました。私は病気への恐怖心があり、体の表面の変化ばかりを求めています。私は比較的に新しい学習者ですから、本体が絶えず浄化され、業を滅するのもいずれも良いことだと分かっています。このような現象になったのはきっと私に何か問題があったに違いないと思いました。

 数カ月間の思考を経て、私は大法と師父をどのように見るべきかはとても重要だと分かりました。私たちには漏れがあってはならないのです。ある日私は夢を見ました。夢の中で私は自分の考えをノートにメモしていますが、私が書いているとき、ノートの紙がなんと師父のお顔に変わったのです。私は師父の顔に文字を書いていることに気づき、大変びっくりしました。これは私への暗示だと思います。つまり私は心の中から師父と大法を信じていないことを意味しています。学法を通じて、私はたくさんの根本的な執着に気づきました。これらの執着をも放下しなければならないと思いました。

 「問題が現れたら、心性から探し、根本から自分を高め、真にこのことを放下し、他の方面から正々堂々と歩んでくるのではなく、そのことに対して、『なぜこれをまだ乗り越えられないのだろうか? 今日少し良く行なったのだから少し良くなるはずで、明日更に少し良く行なうから、更に少し良くなるはずだ!』と考えています。このことをいつも放下することができず、『私は良く行なっている』と見た目では放下しているように見えます。あなたが良く行なっているのはそのことのためです! あなたは本当に大法弟子として行なうべきことのために行なっているのではありません!」[2]と師父はおっしゃいました。

 私は自分が正念が足りないと気づきました。これらのことは自分の修煉の関になりました。まさしく師父がおっしゃったように「本当にそれほど正しく行うことができれば、どんなものも妨害することができません。(拍手) 言うのは簡単ですが、修煉者として、修煉はとても難しいのです。師にも分かっています。しかし、どんなことがあっても、正念を持ち、正しく行うことができれば、乗り越えられない関はありません。本当に危険な状況に置かれていますが、問題がどこにあるのか分からない時でも、正念を失ってはいけません」[3]

 大法にできないことはありません。「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです」[4]

 以上は自分の修煉の理解です。正しくないところはご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『大ニューヨーク地区法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/10/4/375321.html)
 
関連文章