古代漢方医学の「虫」を殺す治療法
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文/鐘医

 【明慧日本2021年8月20日】古代漢方医の病気治療には多種多様な手段が使われており、現代人、特に中国共産党の党文化に汚染された中国人には、受け入れられないものもあります。しかし、それは古代において実在したもので、記録にも残っています。本文に述べているものは、西洋医学で知っている寄生虫を下すような簡単なものではなく、西洋医学では全く説明できない事例もあります。

 『名医類案』にこんな記載があります。王海蔵(元王朝の名医)の話によると、楊時という病人がいて「風気衝心」の病にかかり、ものを食べたらすぐ吐いてしまい、痩せこけていました。王海蔵は彼に「万病紫菀丸(まんびょうしおんがん)」を飲むように教え、20日間服用した後、カエルのような肉の塊5、6個と白い膿2升を排泄して、治りました。趙侍郎という人も、ものを食べるとすぐに吐いて、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなったので、彼も「万病紫菀丸」を服用すると、5~7匹の青色の蛇と3、4升の膿を排泄して、病気が良くなりました。

 『明史』には、戴原礼(明朝の宮廷医官・朱丹渓の弟子)は明の太祖の命令を受けて、その第四子である燕王のお腹の腫瘍を治療するように命じられました。戴原礼は前の医者の処方を見て、処方した薬は症状に合っているのに、どうして効果がなかったのかと考えました。燕王に何が好みかと聞くと、燕王は「生のセロリが一番好きだ」と言いました。それで戴原礼は病因が分かって、薬を処方しました。その晩、燕王は下痢をして、小さなバッタをたくさん排泄して、病気が治りました。

 明朝の名医・陳士鐸が『本草新編』にこんな事例を記録しました。私(陳士鐸)は湖北を旅して漢口に泊まっていた時、客船の主人が前から咳が出て、ずっと治っていないことを知りました。病気になった経緯を尋ねると、客船が潯江(じんこう)に停泊した時、夜にハリケーンが発生し、彼は急いで船の帆や縄などを片付けた時、突然、激しい雨が彼の背中を直撃し、とても寒いと感じ、それからずっと咳をしてきたそうです。咳をすればするほど胸の中がかゆくなり、血を吐いて咳がやっと止まるのです。きっと寒い雨が肺に浸食して、肺の中に虫を発生させたと私は言ったが、彼は信じません。暫くして彼は胸が痛くなり、もうすぐ吐血しそう、どうしようと言うので、私は早く烏梅湯を飲みなさいと指示しました。飲んだら、思った通りに胸の痛みが和らぎました、彼は「なぜか」と聞いてきたので、私は「これは表面の症状を抑える方法で、虫がいるかどうかを検証するためのものだ。虫は酸味に遭うと潜む習性があるので、今、烏梅湯を飲むと痛みが緩和したのは、体内に虫がいることを証明した」と言うと、彼はやっと納得しました。私はオモトの葉を砕いて汁を取り、酒に溶かして、胸が痛い時にすぐに飲むように指示しました。夜、彼は胸が痛くて、オモトの薬を服用したら痛みが更にひどくなりました。喉が渇いてお茶を飲みたいと言ったのですが、彼にもっと多くのオモトの薬を飲ませました。飲むと痛みがひどくなり、喉がかゆくなりました。これは、虫が耐えきれなくなって出てくる前兆です。オモトの薬をまた飲ませると血を吐いて、一匹の虫が血と一緒に出てきました。虫の全身は紫色をしていて長さ2寸半、指ほどの大きさで、胴体はコオロギに似ていて、脚は長くてカマキリのようで、明かりの下で見れば虫の体に炎が燃えているようです。虫の額には2寸の触角があり、背中の翼はまだ完全に出来上がっていなくて、腹部もまだ半分しか発育していません。虫が出てきた時、直径1センチの血の塊が付いていました。

 明朝の名医・李中梓は『中医案』にこんな事例を記載しました。南京に住んでいる姚越甫は、ある年の秋に彼の2人の息子が肺結核を患って亡くなり、彼はとても悲しんでいました。その後、彼は熱と咳が出て、両目はぼんやりしていて、足腰に力がなく、痰が出て、唇には白い斑点が現れ、薬を服用しても効果がありません。私の診断では、これは「伝屍病」だと思います。つまり、虫が感染して人が死んだ後、他の人の体に移り、これで家族は相次いで死んでいくという病気です。今、虫が彼の内臓を侵食しており、通常の薬だけでは虫を殺せないので、彼も直に死にます。私は血余散にセンキュウ、当帰、甘遂、天霊蓋を加え粉末に研磨し、桃の木の枝で煎じ、空腹で飲ませました。数時間後、小さい鼠のような虫3匹と両端が尖る虫2匹を排泄しました。病人は疲れたので、朝鮮人参のスープを飲ませました。翌日、粉薬の量を半分飲ませて、また両端が尖った虫を数匹排泄しました。「十全大補丸」を半年服用した後、彼は回復しました。排泄した虫は火で焼死して、雄黄とともに砕いて瓶に詰めて、蓋をしっかり封じて人の通らない辺鄙な場所に埋めました。

 明朝の名医・孫一奎は『孫氏医案』で、自分が治療した病気をこのように記載しています。かつて、私は丁氏の痛風を治療し、体内の湿気が溜まったため経絡が痛くなったと診断して、薬を5回飲んだ後、痛みがひどくなったため、丁氏はその薬を拒否しました。それで、私は酢でフジモドキを煎ってから海金砂を加えて、お湯で溶かして丁氏に飲ませました。夜になると、丁氏は下痢して、濃い膿をたくさん出して、足の痛みも大半が治り、少し動けるようになりました。夜中、丁氏が急に激しい腹痛がしていると聞いて、私は丁氏の寝室に行く途中、家族は「彼女はもう死んだ、診察する必要がない」と言いました。私は「これはきっと痛みで意識を失ったので、亡くなったのではない、診察しないといけない」と言いました。寝室に入ってみると、彼女は便器に座ったままで冷や汗をかいていて、顔は青ざめていて、呼吸はしていません。脈を測る時、手は冷たいのですが、強く押せば脈を感じます。それで、彼女は痛すぎて気を失ったと私は確信して、彼女に生姜湯を飲ませました。彼女は蘇って下女に「さっきはお腹が痛くて肛門は火に焼かれるように熱くて痛くて、大きな音がしたが、何かを排泄したか」と聞いたので、皆で確認すると、なんと排泄したのは血の色をした1匹のドジョウで、長さは6寸、太さは0.5寸、目も鱗もあって盆の中で泳いだので、見たら身の毛もよだつものでした。

 明朝小児科の名医・万密斎は著書『幼科発揮』にこんな事案を記載しました。胡さんは亡くなった弟の子供を養育しています。ある日、子供はお腹に虫がわいて痛いので、私の父に治療してもらっても、効果がないため、私に依頼しました。私は父にどんな薬を使ったかを聞いてみると、父は「雄黄解毒丸」だと言いました。ほかに良い処方がないかと聞いたら、父は、私はこの一つの処方だけを使って、ずっと良い効果を収めてきたのだと答えました。私は「恐らくこの虫はもう利口になったようで、何か特別な方法を使わないと退治できない」と話しました。それで吉日を選んで、その前日にクレンシを煎りました。吉日の朝、目玉焼きを作って、子供に「目玉焼きを食べてから薬を飲もう」と教えます。目玉焼きをわざと子供に食べさせないようにしました。子供は香りを嗅いで食べたくなり、この時に何かがお腹から喉まで湧いてきたようです。そのタイミングにクレンシのスープを飲ませます。喉に来たものはお腹に落ちてしまったので、目玉焼きを突き出しても子供は食べようとしません。暫く経って子供のお腹は「コロコロ」と鳴って、変な虫を排泄しました。小指くらいの長さで、頭もあって手足もあって、まるで赤ん坊のようです。私は「これは伝説の伝屍虫ではないか!」と驚きました。胡さんは「この子の父親は結核で死んで、母親も結核で死んだ。結核の伝屍虫が子供の体に移ってこれはもう三代目だね。幸いなことに今日それを消滅した」と言いました。

 これらの例を、現代の西洋医は全く信じないかもしれません。しかし、これらの例は野史伝説ではなく、いずれも忠実で厳粛な学術著作から拾ったものです。もしもっと古い伝説や医者の手記を探すと、このような医例はさらに多くなります。

 現代西洋医学は解剖学を発展させたのですが、他の空間の存在を知らなくて、自らを枠の中に閉じ込めて「虫による病」といえば寄生虫しか認めません。しかし、古代漢方医が認識した「虫」は西洋医学の認識をはるかに超えています。古代漢方医が消滅した「虫」の多くは目が付いて、一般の寄生虫とは大きく違います。多くの深刻な疾病は、虫を下せばすぐ治ったのです。古代漢方医学の成果は現代人が簡単に「迷信」の二文字で抹殺できるものではありません。

 古代漢方医の虫を下す治療法は、すでに散逸しています。中国では漢方医学は西洋化され、共産党化されて、批判の的になっています。上記の虫を下す例なども現代の漢方医では理解できない処方を使っています。現代の漢方医は血、気や陰陽を保養するような平凡な処方しか出せなくて、または西洋医学の理論に基づいてでたらめな漢方処方を出すので、虫を下せるはずがありますか? 古代中国では、漢方医が虫を下せることは誰でも知っている常識なので、虫を下したように見せる手品を使って病人の金を騙し取る詐欺師もいました。それによって何か「内幕」を披露して、漢方医の虫を下す手段はすべて偽物であると宣伝する人もいます。実際、それを信じた人達は漢方医をどれくらい理解しているのだろうか?

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2010/3/5/219270.html)
 
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