医師から余命5年と診断 新たな人生を得る
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 文/日本の大法弟子

 【明慧日本2021年9月1日】私の名前は望月良子といいます。私は68歳になりました。私は強い野心家で、誰からも強い女性だと言われています。私は中国で生まれました。中国は人口が多く私が物心ついたときには、母親は既に体調が悪く、難しい家庭環境でした。私は共産党の教育下で、未曾有の文化大革命と様々な運動を経てきました。例えば、大躍進(訳注:1958年に毛沢東が発動した、工業・農業など ... 社会主義建設総路線の運動)、三反五反運動(訳注、資本家や地主を標的にした迫害運動)、整風運動(1940年代に中国共産党が行った一種の反対派粛清運動)、四清運動(都市と農村における社会主義教育運動)などです。

 私が子供の頃は、出身の悪さからあらゆる面で排斥され、抑圧されていました。上山下郷運動(都市部の青年層に対して、地方の農村で肉体労働を行うことを通じて思想改造をしながら、社会主義国家建設に協力させることを目的とした思想政策として進められた)と、工場への革命運動も経験しました。毎日、葛藤と不安の中で生活しており、本当に苦難に満ちていました。

 私は中学を卒業して、学歴も低く出身のせいで仕事を探しても、誰も相手にしてくれませんでした。そのため、落ち込んでしまいとても苦しい思いをしました。世界はこんなにも広いのに、私には道がないのです。人と人との間に心が通わないようにも感じてしまい、なぜそうなのか理解できませんでした。

 私は生きていくために一生懸命働き、どんな苦しみも厭わずにしました。託児所がないので、自分の子どもを連れて仕事に行きました。私の夫はバイヤーで、家を空けることが多かったので、私は、家の中のことも、外のことも何でもやりました。私は料理の仕事をしたことがあり、大工や職人の仕事、教師、総務の仕事をしたこともあったので、自分は何でもできると思っていました。 特に人に良くしてもらったり、上司が面倒を見てくれたりした時期がありました。

 数年後、上司の交代があり、私は外の掃除を任されました。納得がいかなかったので、戦って戦って、上司のところまで行って戦ってみたら、本当に大騒ぎになってしまったのです。その後、やむを得ず40歳で会社を退職することになってしまったのです。正式な手続きを終えた後もまだ憤りを感じていた私は、上司に「私は才能のある人間だから、あなたが使ってくれないなら私は自営業をします」と言ってから、家に帰りました。

 一、意地を張るために戦って病気になった

 私が意地を張ったために、夫と一緒に料理店を開こうと話し合いました。借金して家を借り、三輪車を買いました。私たちは臆することなく、石やレンガを集めて自分たちの料理店を作り、数日後には完成してオープンしました。自分たちのビジネスを持つことができて、とても嬉しかったです。 最初は自分たちだけで始めていましたが、徐々にシェフを雇い、ウェイターも1人から2人になり18人になりました。ビジネスは素晴らしいものでした。税務署、コミュニティ、公安との関係も良好で、後ろ盾も充実していました。この地域の各会社のリーダーたちが毎日ホールを埋め尽くし、後に、昼間は料理店、夜はダンスホールを開くまでになりました。

 しかし、良いことは長続きはしないのです。時には朝から晩まで忙しく、食事をとる時間もなく、ゆっくりと自分の体をサポートすることもできなくなりました。ビジネスのためと言っても、朝から晩までの毎日なのです。ついに、ある日私はもう何もできなくなり、全く力が入らなくなりました。あまりの悲しさに病院に行きました。医者は「大きな病院に行きなさい。ここではもう治療できません」と言ったのです。 3つの病院に行きましたが、同じことを言われました。実は心の中では、ずっと前から便に血が混じっていて、自分の状態に気づいていたのです。しかし、私は、 これまでの人生をあまりにも苦しんできたので、今持っている財産と地位で、ようやく人から尊敬されるようになったのではないかと思っていたのです。 そのため、私は死んでも構わないと思いました。

 私は、軍隊病院の院長に会いに行きました。すぐに入院させられ、ベッドに横たわり、動かないようにしてほしいと言われました。ついに戦いに敗れ、敗北を喫しました。その瞬間から、私の人生は終わったと思いました。私はこれまでの人生で酸いも甘いもすべて味わってきましたが、振り返ってみるとやはり楽しさよりも苦痛の方が大きかったと感じました。「どうして人はこんなに苦しいのだろうか」と思うことがよくありました。 「なんでこんなに苦しいんだろう。 なぜ私の運命はこうなのか?  これまでの人生で、私は有名になり、金持ちになり、やりたことや求めたいものを手に入れることができた。でも結局、いまの私には何があるというのか?  死を待つだけなのか?」

 一瞬、私は今まで体験した苦しいことや、体の辛さとかが入り混じって思い出されたのです。私は、自分が 黄連(極めて苦い基原植物)よりも苦いと感じました。 私は医者に、「死にたい」と懇願したところ、先生は驚いて「なんで? 私は長年医師をしていますが、『死にたい』と言った患者さんは一人もいませんでしたよ。 彼らは皆、私に『助けてください』と懇願しています。 なぜそんなことを言うのですか?」と聞きました。私は医者に、とても疲れていることや、これまでの人生で多くの苦しみを味わってきたこと、そして、もうこれ以上、人生で多くの悩みや苦しみ、苦労をしないように、休みたいということを、心から伝えたのでした。

 慢性的な栄養失調で便に血が混じっていたため、1週間も輸血を続けないと手術ができませんでした。手術は 7、8時間もかかり、全身麻酔ではなかったので、痛みで悲鳴を上げていた私は、だんだんと声を出す力がなくなっていきました。 手術台から降りたときは、死ぬよりも辛かったのです。 死ななかったのですが、痛みでベッドの上を転げ回っただけでした。 どれくらいの時間が経ったか分かりませんが、私がやっと静かになれたとき、娘と息子が目の前に立って泣いていました。彼らは、「お母さん、こんなひどい病気になっていたのに、どうして教えてくれなかったの?  お母さんがいなくなってしまったら、私たちはこの先どうすればいいの? お母さんはいつまでも元気に生きていて欲しい」と言いました。私は死にたいと思いながらも、どうしても手放せなかったのが、子供たちだったのです。 だからこそ、「私はまだ生きており、苦しんでいる原因かもしれない」と思いました。

 病院のベッドでの26日間、息子は毎日小さなベンチに座って私を見守っていてくれました。その間、20キロ以上体重が減っていました。 退院後、私はエレベーターのない4階に住んでいたため、会社の仲良し4人組が家まで運んでくれました。 私は病人になってしまい、何をするにも人に助けてもらわなければなりません。 私のような強い人間がこのような状態になってしまったことが悲しくて、涙を流すことしかできませんでした。

 闘病中は、息子が私を背負って階段の上り下りをしてくれたり、毎日世話をしてくれました。そして3カ月後、日本へのビザが発行されました。夫の母親は、私の状況を知っていたので、お金がかかることや、日本で死ぬことを恐れて、日本に行ってほしくなかったのです。 それを知った夫は、母親に「あの子は俺と結婚して良い暮らしをしたことがないから、ただ日本を見に行ってもらいたいだけです。もし病状がひどくなったら、彼女を連れて中国へ帰ります」と話しましたが、 結局、夫の母親が書類を送ってくれることになり、私たちは家財やら何もかも手放して、中国を出ることになりました。

 飛行機を降りて日本の大地を見たとき、まるで長く離れていた故郷に戻ったように感じました。ここが自分の故郷だと感じたのです。そして、とても親しみやすくリラックスできたのです。電車に乗ると、すぐに席を譲ってくれる人がたくさんいました。日本人はきちんとした服装で、礼儀正しいのです。私はこの国を愛してやまず、元気になったら、この国のために、自分ができることは何でもやろうと思いました。

 家に着いてから、長旅のせいか3日で倒れてしまいました。食べることができず、病人に戻ってしまいました。1週間後、叔母が来て、夫の母親に「東銀座のがんセンター病院に連れて行って、区役所に助けを求めたらどうですか?」と教えてくれました。

 二、食べること、家事をすること、眠ることができた

 それから4年が経過しました。1997年末、毎日薬を飲んでいる私を見て、友人のAさん(法輪功修煉者)が、「法輪功を学んだらどうですか? とても素晴らしい功法ですよ」と言ってくれました。その時、日本では多くの人が入信のために私の家を訪れていたので、法輪功も同じようなものだと思い込み、断っていました。しかも、家族からは「ドアを開けてはいけない、宗教に入ってはいけない」とずっと言われていたのです。毎日、私はテレビを見る以外、何もできませんでした。そのため、私はAさんの勧めを何度か続けて拒否していたのです。

 ある日、Aさんから電話があり、「話があるから、家に来てくださいね」と言われたので行ってみると、彼女の家にお客さんが来ているのに気づきました。 私が帰ろうと思ってドアを開けたのですが、Aさんは、「ちょっと待ってくださいね」と言った後、2人の前で「見てごらん、この人は毎日薬を飲んで病気になっています。法輪功を学ぼうと言いましたが学ぼうとしないのです」と言いました。その2人が私を見ていたので、私は我慢できませんでした。 私は面目を保ちたかったからです。今まで誰も、私にそんなことを言ったことはなく、みんな丁寧に話しかけてくれていたからです。そんなAさんに腹を立てながらも、面子を保つために、「それ以上言わないでください。持ってきているものを見せてください」と言わざるを得なかったのです。その後、私は Aさんからもらったビデオと、『大圓満法』という本を持って、私はふらふらと家に帰りました。家に帰るとそれを脇に置いて横になりましたが、とても不愉快でした。

 次の日、ふと昨日のことを思い出して、「どうせAさんから貰ったものだから観てみよう」と思い、 VTRをつけてみるとすぐに、とても親しみやすい美しい音楽が聞こえてきました。目の前に現れた師父はとても親切で、親愛なる尊敬すべき人であることがわかり、思わず心が動いてしまいました。その瞬間、私は「これは離れられない」と思いました。 師父の動きは美しく、ある種の神聖な力を持っていて、まるで私に、「来なさい、立ちなさい、煉功をしなさい」と呼んでいるかのようでした。私は思わず立ち上がって、師父の号令を聞きながら動きをしました。とても心地よくて素晴らしいのです。 感動と興奮を覚えました。 その気持ちを理解することはできないものの、私にはどうしても離れることはできませんでした。

 煉功音楽が終わった後も、私の心は師父の慈愛に満ちた優しい顔、美しい音楽、そして師父の声がずっとずっと耳に残っていました。

 私は普段から寝つきが悪いのですが、その夜は違っていました。目が覚めた時には太陽がとても高く、家の中が明るく照らされていて、家族はとっくに出かけていたのです。こんなに長く、こんなにも心地よく眠ったのは初めてでした。煉功の音楽のことを思い出すと直ぐに立ち上がり、再びビデオレコーダーの電源を入れ、師父の教えの音楽とともに、功法を煉ることができました。

 1日、2日、1週間、2週間と、法輪が回っているのを感じましたが、それは毎回違っていました。その回転はとても繊細で、私が不快な思いをしていたら法輪が回っているのです。 1、2カ月間、煉功していないのにお腹の中で法輪が回っていることに驚きました。法輪を植え付けてもらっていたのです。毎日、幸せと喜びの中で、法輪を回すように過ごしました。次第に食べることができ、家事もできるようになり、顔色も良くなっていきました。

'图:望月良子'

写真:望月良子さん

 ある日、家族がふと私の変化に気づいたのです。以前のような清潔な家に戻っていたからです。 夫が「どうしたの?」と聞いたので、私は「もう病院に行かなくてもいいし、薬も飲まなくてもいいし、あなたたちは毎日心配しなくてもいいの。私は元気になったよ」と伝えました。夫は驚いて、「なぜ?」と聞いたので、「私は法輪功を学んでいるから」と言いました。夫は私が日本の宗教に入ったのではないかと心配して、すぐに「どんな功法なの?  見せてくれないか」と言いました。 私はビデオレコーダーを起動して彼らに見せました。 夫は「それは中国のものなの?」と聞いたので、 「はい」と答えました。夫は再び、「この功法は本当に良いのか? 邪道だったらどうしよう」と言いました。私は何も考えず、「気にしてない、何があっても従う」と毅然とした態度で臨みました。なぜなら、初めて煉功したとき、私は師父に「とても素晴らしい功法ですので、私はずっと法輪功を学び続けたいです! これが私の欲しいものです。だから、どんなことがあっても、私は修煉します。私は諦めません。いつまでも、いつまでも、これが私の師父だからです」と言ったからです。

 三、夢で何度も私に法を学ぶように促された

 私は功を煉っているだけで、法を学んでいませんでした。師父から何度も啓発してくださっていたのですが、理解できませんでした。夢の中で、透明で白くてとても素晴らしい世界に行ったことがあります。いつも夢の中でこの光景を見て、師父を見て、そのたびに手を動かして踊って、大喜びしていたのです。

 私は、真剣に学法していないため、心性が向上できておらず、どんな関門も越えられないのです。お金を見ると拾ってしまい、性懲りもなく、人と喧嘩をしては殴って喜び、人には容赦しませんでした。 何度も師父に啓発されていましたが、私はあまりにも愚かで、理解できませんでした。

 ある日、夢の中で師父が私の家に来てくださったのです。私はとても喜びました。いつも「師父が来てくださったらいいな」と思っていましたが、今回は来てくださったのです。私はとても人里離れた山の端に住んでいて、家の中には小さな炕(カン)(焚き口から延びる煙道を利用して暖を採ったり、部屋を暖めるカマドは、中国では「炕(カン)」と呼ばれている)があり、炕の上には小さなテーブルが置かれていました。師父は「どんな本を持っているか見せてくれませんか」とおっしゃいました。 私の本棚は空っぽで、『轉法輪』が1冊だけ置いてありました。 師父は炕に座っておられ、夢の中で私は小皿料理4つと、ご飯1つ作っていたことをはっきりと覚えています。私は床に立ったまま、師父がお食事をされるのを見ていました。師父が食べ終わられると、師父は、「私は山の奥に行って大法を広めに行きますが、あなたも行きますか?」とおっしゃいましたが、 私は「いいえ、行きません」と答えました。

 師父が、お帰りになるところを見送ったのですが、ドアを開けると、外は大雪が降っていましたが、それでも師匠は帰らなければならなかったのです。ふと、師父が靴下を履いていらっしゃらないことに気づき、急いで私は師父に、「靴下を取りに行ってきますから、待っていてください」とお願いしました。弟の靴下を持って外に出てから追いつこうとして、片足雪の中に足を踏み入れると、雪が太ももの付け根まで届くのです。片足を苦労して引き抜くと、もう片方の足は雪の中に沈んでいくのです。疲れてしまって、とうとう師父のお姿が見えなくなってしまいました。そんなこんなで頑張りましたが、汗だくになってから夢から覚めました。

 また別の時の夢ですが、下から上に向かって、あの素晴らしい透明な白い場所に向かい、上に、更に上に向かって登っていたのですが、そこにはたどり着けませんでした。上の方で大きな手が私を引っ張ってくれていたのですが、どうしてこんなにも重くて、しかもこんなにも大きな荷物を抱えているのか、上に上がれないのです。とうとう疲れてしまって目が覚めてしまいました。 何故師父は、私の重い荷物を手放すように啓発してくださったのでしょうか?  その時「私は様々な執着を手放すべきだ」と悟りました。

 しかし、しっかりと法を学ばなければ、どうやって悟りを開くことができるのでしょうか?  高次元に上がらなくてもよい、どうせ元気になったし、修煉をやめてもいい、と思っていたのですが、しかし、こんなにも素晴らしい功法だから、どうしても手放すことができませんでした。師父、私はどうすればいいでしょうか?  慈悲なる師父は私を見捨てず、もう一度私に啓発してくださったのです。

 それは夢の中で、信じられないほど広大で果てしない海の真ん中に、家ほどの大きさの大きな竹イカダがあり、その上には柱とランプがありました。その波打ち際で、私は生後数カ月の子供と一緒に、師父に海から救出してもらって、3人で竹イカダに乗っていました。

  大波が次々と、竹イカダを叩き付けていましたが、師父は微動だにされないのです。竹イカダは大波を押しのけながら遠くへと向かっていきました。私が裸足で立っていると、師父は遠くを眺めながら立っておられ、風にも波しぶきにも身を任せながら、じっとされているのが見えました。そして、私は波と風の音で目が覚めたのです。

 涙が流れました。なんて慈悲なる師父なのでしょうか! 私が何だっていうの? なんでもない存在です。ただの小さな私が、師父によって死から救われたのです。私は 困難に遭遇するとあきらめたくなります。そのため、恥ずかしいのですが、師父の救いの手が信じられず、いつも心配している自分がいました。「何があっても諦めない」と言っていたことを忘れていました。師父、本当に申し訳ありませんでした。 中国には「一日師として仰げば、一生父として慕う」(弟子は師匠を息子が父親に対するのと同じように、一生尊敬しなければならない)という言葉がありますが、私の命を救ってくださった師父に、私は何も言い訳することはないのです。ただ精進するしかないのです!

 1998年にシンガポールで開催された法会に参加し、そこで本当に師父に出会いました。その時、まだ私は、師父の説法を理解することができませんでしたが、ただ宇宙大法である「真・善・忍」を思い出し、師父と一緒に写真を撮りました。私は師父に向かって大きな声で、「師父、師父」と呼んでいました。師父は私の声を聞いて振り返ってくださったのですが、私は何も言えなかったし、この気持ちを言葉で説明することもできませんでした。そして師父は私に優しく、「必ず本を多く読み、多く読んでください」[1]とおっしゃいました。師父は去って行かれましたが、あの背の高い慈愛に満ちたお姿は、一生忘れられないことです。

 四、病気が治ったら、国の医療費補助を返そうと決意

  法会を終えて日本に帰ったとき、今度こそ、師父の期待をこれ以上裏切ることはできない、本当に師父の弟子になって、「做すところ到るは是れ修なり」[2]、そうすべきだと思いました。日本に貢献するためにも、働くことを決意し、収入を得て、国が私の医療費をあまり負担しなくて済むようにしたいと思いました。まず、国からもらったお金を返して、医者には病気が治ったからもう病院に行かななくてよくなったと伝え、区役所にもそのように伝えようと思いました。しかし、私は日本語がわからないので、区役所で働いていた伯母に、どうしたらいいか聞いてみました。叔母は、私が法輪功を学んで回復したことを知っていたので、私がこの返金の話しをするとすぐに承諾してくれました。とても嬉しかったです。

 しかし、何度かの紆余曲折を経て、国は「これは法律で定められていることであり、一度申請した医療費補助をもらったあと、国に返却する必要はない」と明言しました。叔母は「このお金がいらないのなら、私たちにください」と言いましたが、私は断りました。これは返金しなければならない、元気になっているのだから受け取ってはいけません。宇宙最高の法理である真・善・忍に従わなければなりません。本当に修煉したいならば「真」にならなければなりません。何があっても、国に返金しなければならないのです。叔母には、もう一度区役所の人に返金の話をしてくれるように頼みました。しばらくして、叔母から「あなたの願いが叶ってお金を返したよ」と電話がありました。

 大法に基づいてやり遂げました。大きな重荷を下ろして、全身がすっきりしました。

 私は幸いにも法輪功学習者であり、私のように死を経験した者にとって、新たな命を与えてくださったのは法輪大法でした。私は病院で死を宣告された人間であり、医師から「努力しても5年を超えられないでしょう」と言われていました。しかし、幸運にも大法を得ることができ、今年ですでに24年になります。私は世界中の人々に、法輪功は病気を治して健康になるだけではなく、人間としての道理を教え、返本帰真の道に歩むことができるということを伝えたいと思っています。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『スイス法会での説法』
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「実修」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/8/21/429607.html)
 
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