些細な事の中で大きな執着を取り除く
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年9月16日】正法時期の大法弟子として、人を救う過程で毎日異なる経験や感じることがあります。衆生が救われたことにより喜びがあり、真相を聞かない人への残念な思いがあり、同修のそれぞれ、気づかない執着により引き起こした葛藤があり、心性が向上した後の超然と洒脱(しやだつ:さっぱりしていて俗気がないこと)があることなどなど。私たちは大法の中で自分を磨き、3つのことをしっかりやりながら心性を高めています。

 1、内に向けて、嫉妬心を取り除く

 少し前のことですが、同修Aさんと私は、人を救うために法輪功迫害の真相を伝えようと、いつも一緒に出かけていました。最近は雨が多いので、外に出ても人が比較的少なかったのです。その日は曇り空だったので、Aさんと私は縁のある人を探しにいくつかのお店や屋台に行きました。その後、雨が降ってきて、だんだん強くなってきたので、真相を伝えにショッピングモールに入っていきました。

 2人はショッピングモールから出てきたとき、入り口にある店舗に大量の処分される服が吊るされているのを見ました。そのうちのひとつは、私が着ていたものとまったく同じものでした。同修は「ほら、その服は君が着ている服と同じだよ 」と言いました。そこで、店員さんに服の値段を聞き、店員は、69元(約1000円)で最後の一着だと答えました。「おっと、3年前に買ったときは300元(約5000円)以上だったのに」と私が言うと、店員は「それならもう一枚買って、気分転換に着てみては?」と言ってくれました。

 その時に思ったのは「買わないと他の人が着て,おそろいになるのも嫌だし、買ってもずっと同じ服を着ていると嫌になってしまうのではないか」ということでした。ちょうどこのとき、同修Aさんが試着すると言い出し、彼女はそれを着てみて感じが良かったので、店員にお金を払おうとしました。すると自分は焦って、Aさんをつかまえて「似合わない」「可愛くない」と言って、買わせないようにしていました。しかし、A同修は、今日は別人のようでした。いつもは何を買えばいいのかを私にアドバイスを求めるのですが、その日は「どうしてもこの服を買いたい」と言いました。

 突然、違和感を感じ、自分は何をしているのだろう? そこで私はいったん気持ちを整理するために、ショッピングモールを出て、自分の人心を探し続けていました。他人に自分と同じ服を着てもらいたくないというのは、明らかに利己的であることに違いないのです。その利己心の裏には、気づきにくい嫉妬心や面子のための欲求、他人が自分よりもきれいに、ちゃんと着こなすのではないかという不安がありました。自分はまだこんなにも大きな嫉妬心を持っていることがわかりました!

 師父はこう説かれました。「嫉妬心は中国ではきわめて強烈に現われており、すでに日常茶飯事になっていて、自分でもそれと感じられないほど強烈なものとなっています」 [1]「嫉妬心が取り除かれていないために、佛とトラブルを起こすかも知れませんが、このようなことが許されるものでしょうか? ではどうすればよいのでしょうか? あなたは常人の中で、さまざまな良くない思想をすべて取り除かなければなりません。そうしてはじめて上がって来られるのです」 [1]

 心が落ち着いた頃、同修がその服を持って出てくるのが見えました。この時点では、私は何事もなかったかのようになりました。 すぐに内に向け探すことで、心性が向上したことによる安心感やすっきり感を体験しました。

 2、聖なる縁を大切にして、意識を変える   

 私たちの学法グループの同修Eさんは、座禅や発正念をするとき、いつも眠くなります。あるグループで煉功したとき、彼女の動きの多くが不正確であることに気づきました。彼女が「単手衝灌」をしていて、思い切り上へ押したとき、私は「うーん」と思わず声を出ました。(私の地元の方言のため息で、いわば鉄が鋼にならないのを残念に思う意味を込めたため息です)。私は、自分の行動が思うようにならなくなったことに気づき、愕然としました。

 私は自分を責めました。すでに20年以上修煉した古い弟子なのに、どうしてこんな失態をしたのでしょうか? 普通の人の言葉では軽すぎで、修煉の立場から見ても厳粛ではありません。深く掘り下げると、それは師父と大法に対して不敬なのです。

 このとき、他の同修もEさんを見ていたのですが、Eさん自身はまったく気がついていませんでした。Eさんは「法輪周天法」を煉っているときも寝ぼけた状態でした。第五式の功法、坐禅のときは言うまでもなく、体が曲がりすぎて、後ろの魔法瓶に触れそうになっていました。

 彼女は数年前からこのような状態で、同修に指摘されるたびに、いつも客観的な理由を口にして、状態がずっと改善されていませんでした。

 Eさんの煉功動作は、師父が求めておられるものとは全く異なり、同修たちは皆見ていましたが、深く考えてみると、これも長年にわたって形成された強い自我が原因でした。私はいつの間にか優越感に浸り、鉄が鋼にならないのを悔むように、同修を見下し、内心からE同修を正法時期の大法弟子として接していなかったのです。特に、他人を変えたいだけで自分を変えようとせず、脳中の腐敗した党文化を取り除いておらず、謙虚さや平穏な心理状態を持ち合わせていませんでした。もし私たちが自我を捨てて、ただ非難したり文句を言ったりするのではなく、師父が教えて下さった口調と優しさで、同修を容認することができれば、おそらくEさんの修煉を邪魔する邪悪な要素はとっくに崩壊していたでしょう。今日、私たちは師父が法を正し、衆生を救うのを手助けするために一緒になって行っているので、これがどんなに大きな縁なのかを考えてみると、まずは自分を変えるべきではないでしょうか。

 この歴史上の重要な瞬間に、未来の新宇宙システム中の衆生を救い、中国の厳しい環境の中で、師父の大法の中で個々に真の金を溶錬し、未来の一人一人の王を成就しているのです。これはなんと貴重で、偉大で、壮麗で、歴史的な聖なる縁なのでしょうか、私が非難したり不平を言ったりしなければならない理由があるのでしょうか? 師父の弟子を見下す理由があるのでしょうか?

 この記事を書いたとき、私自身もEさんと同じような問題を抱えていることに気づきましたが、ただその表現形式は異なります。ここ数年、私は心性を向上させることに関して、本当に恥ずかしく思っています。同修がどうしているかをいつも見ていて、大法と照らして、自分自身を修めることができませんでした。

 師父は繰り返し私たちを諭されました。「大法弟子はさらに大きな果位を成就し、同時に各自で天体の各部分にいる計り知れないほどの衆生を救う責任を背負っています。しかも、救っているのは高次元の生命で、これほど大きな責任があるため、向上に対して極めて厳しい基準が要求されます」 [2]「修煉と法を正すことは厳粛なことで、この時期を大切にできるかどうかということは、実は、自らに対して責任を負えるかどうかのことになります。この時期は長くありませんが、異なる次元の偉大なる覚者、佛、道、神、そして異なる次元の主の威徳を鍛え煉りあげることのできる時期であると同時に、自らをゆるめた修煉者を、すでにいる非常に高い次元から、あっと言う間に駄目にしてしまう時期でもあります」 [3]

 師父の法で目が覚め、修煉とは他人ではなく自分を修めることだと理解できました。私自身が執着して、外に向けて見るというその考え方を変えようとしなかったために、長い間、E同修に誤った状態を引き起こしてしまったのです。師父と同修には本当に申し訳ないと思っています。

 今後の修煉では、精進して、3つのことをしっかりやりながら自分を修め、師父の慈悲深い救いに応えていかなければなりません。

 同修に慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『再び棒喝』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「法を正す時期の大法弟子」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/9/4/428415.html)
 
関連文章