文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年10月18日】私は2017年に修煉を始めた青年大法弟子で、修煉して5年目になります。修煉してからトラブルに対応するとき、名利心などが修煉前とは大きく変わりました。まず面子を取り除いた話をして、皆さんと交流したいと思います。
私はある中学校に勤務しており、学校から博士教師として誘致されました。誘致されたので、上役や教師から尊重されるべきだと思っていましたが、そうではありませんでした。
少し前の学校の全体会議で、全ての部門の教師が参加しました。会議が始まってしばらく経っても校長はまだ政策を話していて、時計を見ると、生徒の学校が終わる時間で、こっそりと準備をして生徒を迎えに行こうとしました。以前は何か用があるとき、教師たちはこのようにして、こっそりと席を外れていました。今回、校長が突然私に「何をしに行くいくのか」と叫ぶとは思いもしませんでした。私はそのときすぐに「生徒を迎えに行きます」と言いました。まさか校長からそのように怒って話しかけられるとは思わなかったので、非常に緊張しました。時間が一分一秒と過ぎていき、会場は静まり返って、空気が張り詰めていました。私一人が立っていて、非常に恥ずかしかったです。しばらくして、一人の上司が「行って」と言いました。校長も一言「行きなさい」と言いましたが、依然として怒っていました。
外に出ると、心は何とも言えない苦しさであふれました。とても恥をかいたと思いました! 学校はこんなに大きいので、もしかしたら多くの教師は私のことを知らなかったでしょうが、今回の事で皆私を知るようになってしまいました。また、自分はまるで間違った事をした子供のような感覚で、大人から責められている感じで、一つの尊厳もなく、心がとても辛かったのです。
このとき私は師父の言葉を思い出しました。「『街を歩いていて不意に誰かに蹴られた時、まわりに知っている人がいなければ我慢できる』と言う人がいます。それではまだ不十分だ、とわたしは言いたいのです。あなたが最も面子を失いたくない人の前で、誰かがあなたに平手打ちを食らわして、恥をかかすようなことが将来起きるかも知れません。果してあなたはそれにどう対処しますか。果して耐えられるかどうか。一応は耐えられたとしても、内心では落ちつかないようでしたら、それでも駄目です」 [1]
私は先ほどの事が、自分の面子を重んじる心に触れたのだと分かりました。この心は取り除くべきで、校長を怨んではいけないと思いました。その結果、本当に校長に対して少しの怨みもなく、逆に謝ろうという気持ちになりました。
師父は説かれました。「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」 [1]
次の日の朝、一人の教師が私を端のほうに引っ張って「昨日の会議であんなに恥をかいて。あなたはトイレに行くとか、電話を取るとか言えば良かったのに、なぜ本当のことを言ったの?」と言われましたが、私はその人を知りません。その先輩教師の「教え諭し」に私は笑って何を言ったか覚えていません。また、普段私と一緒に生徒を迎えに行く教師も、私に会って笑って言いました。「良い恥をかいたね。良い恥をかいた」ああ、恐れていたことが起きて、学校を歩いていても変な感じがして、落ち着きませんでした。
師父は説かれました。「皆さんもご存じのように、羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています」 [1]
このとき、私は突然冷静になり、この機会を利用して必ず面子を重んじる心を取り除こうと思いました。大法は本当に素晴らしく、何か問題にあったら自分を修められるのです。この程度のトラブルに深く陥るほどのことではありません。
私はこれがすぐに乗り越えられ、自分の面子を重んじる心も多く取り除いたと思っていました。しかし本当の狂風が後にあるとは思いもしませんでした。
また数日経って、一人の学年主任が怒りながら私を探していて、そのとき私はいなかったので、彼女は帰っていきましたが、ドアを閉める音が非常に大きく、震動があるほどでした。私はそのことを聞いたので急いで彼女をたずねるとちょうど、彼女は職員室にいる他の教師にかまわず、非難を並べたて、声がますます大きくなって、最後には憎々しげに罵って、とても聞き難いことを言われました。実際彼女が怒ったそれらの事は、濡れ衣でしたが、弁解する余地さえありませんでした。私は強く忍耐しましたが、我慢できず号泣してしまい、泣いて言葉も言えなくなりました。私が泣くほど彼女は怒り、大声で叫び「あなたは自分を可哀想だと思わないで。あなたは少しも可哀想じゃない! 私はあなたが分からないとは信じない!」あなたは自分が校長にでもなったつもり! まだ他にも聞き難いことを言われましたが、今はもう覚えていません……。他の教師は隣で座って仕事をしていて、誰も何も言ってくれませんでした。そのとき各種の辛さが湧きあがってきました。面子が酷く損なわれたと感じました。面子の心がまだ完全に捨てきれていなかったのです。
その日罵られて全身が固まったようになって、無意識にぼーとして一点を見つめていました。それからそのときその場にいなかった同僚が私を励ましに来て、私はこの事がもう伝え広まったのを知りました。私は心の中で思いました。この事はすでに発生した。私はどのように対処すればよいのか? 一つの考えが浮かんできて「彼女とやり合う。彼女がしたこと全てをぶちまけて、上司に訴える、実情を説明し、職場でこんないじめをさせない!」
しかし、私はすぐに否定しました。師父の説法が耳に響き渡りました。「普通の人なら、それを我慢することができるでしょうか? 『こんなひどい目に遭わされて、耐えられるものでしょうか! やられたら絶対にやり返してやる! 奴に後ろ盾がいるなら、こっちにも後ろ盾がいる。徹底的にやろうぜ』となりかねません。常人の中でこのようにすると、常人からは強い人だと褒められるかも知れません。しかし、煉功者としてはそれは最低だと言わなければなりません。常人と同じように争ったり闘ったりすると、あなたはただの常人になります。もし相手よりも激しく争ったり闘ったりすれば、あなたは相手の常人にも及びません」 [1]
私は心の中で「この学年主任を憎んだり怨んだりしてはいけない、彼女は私の向上を助けてくれているのだ」と思いました。もう上司に訴える気持ちはありませんが、この学年主任にはっきり説明したい気持ちがありました。しかし、彼女は私の説明を聞いてはくれないだろうと思っていました。私は彼女の言葉を思い出し、私が変えなければいけない所があるのかどうか、間違いがあるのかどうかを探しました。私は何かがあったとき、誰にも相談することなく自分で決めてしまうことを見つけました。また党文化のごまかしたりする欠点もありました。
最後に、私はこの心をみつけてから学年主任がいる職員室に行って、彼女に心を込めて謝り「これから私は気をつけます」と言いました。彼女は笑って言いました。「これからゆっくり慣れていってね」暴風雨は何事も無かったかのように去って行きました。私が言い終わって職員室を出る時、学年主任と同じ場にいた同僚は私に笑顔でうなずきました。私は自分の心が静かになるのを感じ、この過程の中で人からどう見られるかを気にしなくなりました。
これは仕事の中の小さなことです。師父は説かれました。「常人の中で捨てられないような心を、全部あなたに捨てさせなければなりません。どんな執着心であれ、それを持っているかぎり、さまざまな環境の中でそれを少しずつ削り落とさなければなりません。さまざまな失敗を経験させ、失敗の中で悟らせることこそ修煉なのです」 [1]
師父が、生活の中のことを利用して私の心を取り除くようにして下さったことに感謝します。私の心を更に広く、安らかにして下さり感謝いたします。
師父ありがとうございます! 大法ありがとうございます!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』