文/中国の法輪功学習者
【明慧日本2021年10月19日】ある朝、いつものように朝食を作り終えると、いつもの時間に家族が食べに来ました。台所にやってきた娘は、おかずが昨日の残り物だと分かると、椅子に座って 「今日は新しいおかずはないの?」 と小さな声でつぶやきました。 それを聞いた私は、子供に「ママの作った料理が気に入らなくても、出来合いのものでもないし、栄養を考えて手作りしているのだから、食べ物を大切にしないといけないよ。毎日アワビを与えられても、長い間食べていると美味しく感じなくなるでしょう」と言いました。それを聞いた子供は納得した様子で、急いで朝食を食べ始めました。
家族が朝食を終えてキッチンを出た後、私はキッチンの簡単な片付けを始めました。 皿洗いを終えて、キッチンのタイルを拭き始めたとき、私は心の中で「娘はかつての私のように行動している」と感じました。 以前、姑(法輪功学習者)が生きていた頃は、家族全員の食事を姑が担当していました、私は毎日、朝の煉功を終えて早朝に子供たちと本を読んで法を学び、食事の時間になると台所に来て食べていました。当時の私は、姑が料理をしてくれたことへの感謝の気持ちがなく、「料理が下手だ」とよく愚痴を言っていました。姑がいなくなり、料理が私の仕事になった今、姑がどれだけ苦しんでいたのか、私がどれだけ姑の貢献に感謝していなかったのかが分かりました。
優しい姑がしてくれた気遣いや我慢して譲ることなどを、当たり前のように思っていました。姑は社会的地位が低く、料理しかできないと思っていた私は、順調であったときに「大切にする」という言葉を忘れていました。姑は料理が苦手だったのです。姑が亡くなり、彼女の助けををすべて失ってしまった今、私がどれほどの配慮を受けていたかを実感しています。私は自分自身に問いかけました。なぜ、失ってから気づいたのでしょうか?
この時私が感じたのは、神様は人に永遠の親族を与えないのではなく、たとえ与えたとしても無駄だということです。なぜならば、人は永遠の親族が得られると知ったら、自分の機嫌が悪いとき、きっと理不尽に悪口を言ったり、怒って人を傷つけたりするでしょう。
神が人間に永遠の富と力を与えないのではなく、人間は永遠の富と力を持っていることを知ると、より横柄になるのではないかということです。 神が人間に永遠の若さを与えないのではなく、ひとたび人間が永遠に若くいられることを知ると、人はより誇りを持ち、更に年寄りの無能さを見下すようになるかもしれないのです。
このように、神が人間を好意的に扱わないのは、人々の生活を不幸にしているのではなく、彼ら自身がその恵みを感謝する方法を知らないのです。貪欲な心がある限り、世にあるすべては永遠には続かないのです。
そこで、私自身は法輪功学習者として「修煉の機会を大切にしてきたのか」と自問しました。今の健康な体と幸せな生活を大切にしていますか? 危険な瞬間に、自分が学習者であることを思い出すかもしれません。 しかし、特に幸せを感じたとき、例えば急に大金を手にしたとき、人生がうまくいっていると感じたとき、または、自分が他の人よりも能力があると感じたとき、私はまだ自分が学習者であると自覚していられるのでしょうか? あるいは、自分が学習者であるとは言わなくても、一般の人の道徳心と比べてどれだけ良いのでしょうか? 成・住・壊の時代の普通の人々のモラル、思考、行動よりどれほど優れているのでしょうか? 私達は法輪大法の基準による良い人になっているのでしょうか?
この際、今までの自分を忘れ、これからどんな人生を歩んでいくのかを想像するのを止め、心性を正して目の前のことをこなし、法に基づいて、すべての考えをしっかり修めるつもりです。