文/閻明玉
【明慧日本2021年11月9日】中国清王朝の3人目の皇帝・康熙帝(こうきてい)は、在位61年、国運の栄えた平和な時代を切り開き、「英明な君主」と讃えられている。
後世に「仁皇帝」と呼ばれた康熙帝は、幼少のころから中国の伝統経典を読み、「経史子集、千巻万巻あるが、仁義礼智の四字にほかならない。程朱理学の神髄とは、天理良心の四字にまとめることができる」と簡潔明瞭に語った。康熙が尊敬するのは、天理良心であり、一生をかけてその理念を実践した。
寛仁な時もあれば、厳格な時もあり、いずれも内在の道理に従っている。朝廷の内外は共に彼の仁愛を称賛し、庶民は彼に臣服したという。
寛仁の道
康熙帝の仁愛は、庶民に対する仁政から始まる。孟子が言う「民を貴しと為し、社稷(しゃしょく)は之に次ぎ、君を軽しと為す」とは即ち、民は社稷(国家)よりも大切であり、また国家は君主よりも尊いものである。民は貴なり、社稷(国家)は次なり、君は軽なりという民本思想は、後世に深い影響を与えている。康熙帝の政治人生には民を愛し、民生を把握し、民に恩恵を与える思想と政策が多かった。民を休養させれば、理想の平和の世が生まれると考えたのだ。土地占用停止命令を出し、租税減免を行い、「家族が増えた世帯に対し、永遠に租税を増やさない」と規定した。彼の息子である雍正皇帝になると、数千年にわたって存在した人頭税を徹底的に廃止したのだ。
康煕16年(1677年)、康熙帝が民間を視察中、人が道路に伏せて倒れていたことがあった。ふつう、皇帝の巡幸を阻止する人は、厳しい仕置きをされる。しかし、康熙帝はその人から事情を聴収した。その人は王四海という出稼ぎ者で、故郷に帰る途中に空腹のため倒れたのだという。康熙帝は彼に温かいおかゆを食べさせ、金を贈って、故郷まで護送した。民を愛することは、小さなことから実践する。このことから康熙帝の「仁愛」が伺える。
康熙帝は、庶民のための仁政を施すだけでなく、罪人の刑罰も軽減させている。康煕22年(1683年)、全国で死刑に処した者は40人も満たなかった。康熙帝は法を犯した大臣にも寛大だった。反逆した将軍・鳌拜に死刑を処したが、殺さずに監禁だけにした。秘密裏に党閥を結託した大臣・索額図や、誣告罪を犯した楊光先も殺していない。
康煕25年(1686年)、康熙帝は大臣らに「刑罰で民衆を懲らしめるよりも、道徳で感化させるほうが効果が大きい。それで民は善良になり、自ら悪いことをしなくなる。我は古代の隆盛を慕い、教化を推進することに力を入れた。それによって民の良心を呼び起こし、彼らと共に正しい道に向かうことを願った」と言った。
恩返しさせるが、復讐はさせない
台湾を奪還することについて、康熙帝は朝廷で大臣に意見を求めた。台湾の状況を熟知し指揮能力にも優れる施琅将軍を起用すべきという主張もあれば、施琅は台湾の鄭氏とひそかに連絡を取り合い、起用すればきっと鄭氏に投降するという反対意見もあった。康熙帝は調査して、施琅の息子と甥が清王朝に投降しようとしたところで家族計73人が鄭氏に皆殺しにさせられた事実を知った。康熙帝は不安を解消し、兵権を施琅に渡し、彼に十分な信頼と支持を与えた。
出征する前、康熙帝は施琅に「台湾の戦にあなたはきっと勝利できると思う。しかし、我には別の心配事がある。知っているか」と言った。施琅は分からないと答えた。康熙帝は、「鄭氏の部下に、あなたに恩を着せた人もいれば、あなたに恨まれる人もいる。部下を捕らえてから、彼らに恩を返すことをしてもいいが、復讐はしてはならない」と話した。康熙帝の支持と信頼のおかげで、施瑯は全力で戦い、やっと勝利した。康熙帝の言うとおり、彼は個人の恨みを捨てて復讐などをせず、すべての捕虜を優遇して、皆を感服させた。
極小額の脱税でも許さない
昆山市の名士・葉方藹が科挙の試験を受け、合格した。税務衙門の検査により、彼は国税に白銀1両の未納があることが判明した。ただの白銀1両の未納は大したことがないと思って、葉氏は康煕氏に手紙を書いて、寛大な処理を願った。しかし、康煕氏は法に則って彼の官職を奪って処罰を下した。
康熙帝は清廉を唱えて、国税を着服する不正行為者を厳しく処罰した。四川省の役人は国税を徴収する時、不当に着服して、上司まで賄賂をもらったが、彼と上司はともに死刑宣告を受けた。山西太原知府は勝手に税の名目を詐称して強制的に徴収したため、最後に処刑された。
河道を巡察して、弊害を指摘
康熙46年(1707年)の春、民間視察を行った際に蘇北に着き、水害を防ぐための工事を視察した。工事責任者である張氏に状況を尋ねると、張氏は「私はただ先人の図案に基づいて工事の方案を決めました。事は重大なので、皇帝様が水路を掘るかどうかを決めて下さい」と答えた。
康熙帝は、今掘ろうとする場所は高いので、水が流れてこないこと、そして、掘る場所を示す印(木の棒)は、ほとんど民の墓の上に挿されていることを問題点として挙げた。
康熙帝はまた、「淮河の支流で運河を掘ることは、工事が大変なだけでなく、洪水が発生する時、洪沢湖に氾濫するか運河を潰すことになる......それより、洪沢湖から水が出るところを広く深くして、ダム一帯とつなげたほうが良い解決方法だと言える」と述べた。沿道に立てられた、印としての木の棒を撤去した際、民はみな喜んだ。
その後、康熙帝は「あなたが任命した役人らは、工事に全く無関心で、あなた本人も2、3カ月も現場を見に行かないのに、現状をどうして把握できるのか。あなたたちが報告した方案は、地方官僚が昇進を図ったり、工事経費を着服したりするための愚かな方案だ。彼らに良い工事ができるはずがあるだろうか」と張氏を叱った。
その後、康熙帝は背任の官僚に懲戒処分を下し、張氏らに「よく土手を見回り、雨風を避けずに任務を遂行するように」と指示した。康熙帝は、官吏への賞罰が明確だった。
康熙帝は「心法は統治の方法の源である」と見ている。『庭訓格言』では、「正しいことを考えるか、それとも悪いことを考えるかは、一瞬のことである。正しくない場合、それが正しくないと知ってからすぐに改正すると、道から遠のくことがない」と言った。心はただ一つで、考えると一つの思いが生まれるという意味である。思想が正しいか正しくないかは、一瞬の間にしかわからない。誤っていることにすぐに気づき、それをすぐに正せば、正しい道からそう遠くははずれないはずだ。
英明な皇帝がいれば、賢臣も生まれる。各等級の役人は、康熙帝を手本にし、名誉と節操を重んじ、民を愛し、社会全体は清廉の風気にあふれたという。