生死の病業を乗り越えた体験
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年12月28日】私は中国遼寧省の今年68歳になる女性弟子です。1998年から大法の修煉を始めました。 法がとても良いということは分かっていても、実際には修煉者とは言えない状態にありました。 しかし、慈悲深い偉大な師父は、意気地なしの弟子を見放すことなく、私を守ってくださり、私は生死の病業の関門を乗り越えることができました。この経歴を同修の皆さんと分かち合いたいと思います。不適切な点があれば、ご指摘をお願いします。

 2013年の冬のある日、突然高熱が出て、骨が砕けるように感じ、全身の力が抜けました。大きく呼吸すると痛みに耐えられず、まったく正念を失っていました。毎日の点滴も効かず、本当にいつでも生命が失われると思いました。母は(この時期、私は母の家にいた)責任を取らされるのを恐れ、私を入院させました。検査した結果、病気は見つからず、注射や薬の服用を続けましたが、熱は下がらず、かえって40度以上まで上がりました。このとき私は目覚め、正念が現れ、病院で病気の治療を受けようとの考えがあってはならず、家に帰らなければならないと思いました。私は決意したのです。 私のすべてを師父に預け、生きるか死ぬかは師父に決めていただきます。そして私はすぐに病院の看護師に声をかけて事情を説明し、翌朝、医師に退院をお願いしました。 私の強い希望で、医師も退院に同意してくれました。

 私は姉(同修)に連れられて自宅に戻りましたが、数日経っても依然として高熱が続き、高熱がすでに14日以上続いて、全身がむくみ始めていました。心臓の上下2センチの間を除いて、全身が腫れ、頭、腕、足、手も饅頭のように腫れ上がり、目は開かないほど腫れ、足は靴が履けないほど腫れ、とても恐ろしかったのです。夫はそんな私を見て、家に居てはいけないと、どうしても病院へ行かそうとし、大きな棒で地面を「ドン、ドン」と叩きました。隣近所の休みに影響しないように、大事にならないように私は「もう騒がないで、病院に行くから」と言いました。

 このようにして私と姉は診察券を持って家を出ました。姉は「もう病院には行かないでね」と励ましてくれ、このときの私は揺るぎなく心に決めていました。私は、「わかってる、今回は絶対行かない」と姉に言いました。姉と2人で歩いていると、道端で売っている紙銭(死者があの世で使う金として燃やして送る)に印刷された「路」という文字が見え、私はすぐ悟りました。もし私が病院に行って常人の路を選ぶのであれば、帰れない路を選んだことになります。

 私は姉と再び母の家に行くと、80歳を過ぎた母は私達を見て、驚いた様子で慌てて、「あら! どうして 戻ってきたの?」と言いました。私は、「母さん、大丈夫だから怖がらないで」と言いました。母が姉に「なんでまた連れてきたのよ」と文句を言っているのが、他の家のベランダからも聞こえるほど声が大きかったのです。 姉は「怖がらないで!  大丈夫だから、あなたの娘でしょう!」と言いました。 母は何も言いませんでした。

 ベッドに横になっていると、一晩中、誰かが親指、人差し指、中指の3本の指で、頭のてっぺんからつま先まで、物をつまんでは取り除いているように感じました。 また、髪を一本一本、何度も何度も擦られたように感じました。 さらには排尿のため夜中に何回も起きました。

 母は一晩中あまり眠らず、何度も起きては私の鼻の穴に指を当てて息をしているかどうか確かめていました。

 翌朝、朝食を届けに来た姉が、私の部屋のドアを開けて唖然としました。全身の浮腫が跡形もなく完全に消え、別人のように生まれ変わったのです。このようにして、意気地なしの弟子の私は、師父のご加護と加持のもと、生死の関門を乗り越えることができたのです。 このときの感動は、言葉で表現できない感動を受けました。 私が耐えたことと、師父が私のために耐えて下さったこととは比べものにならないと思いました。

 この度の病業の関を乗り越えたことで、私の家族は大法の奇跡を目の当たりにし、深く感動しました。そして、あまり修煉していなかった母や妹は、精進を始めました。

 もともとは、自分の修煉があまりにもお粗末で、文章にしたくなかったのですが、同修に励まされ、大法の素晴らしさを立証するために、この文章を書くことにしました。

 ここで、私は師父にお礼を申し上げ!  師父の計り知れない慈悲と、 危機の中にいた私を、無私の心で救ってくれた同修に感謝します!

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/12/9/434516.html)
 
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