文/台湾の大法弟子
【明慧日本2022年1月8日】
慈悲深い偉大な師父、こんにちは。
同修の皆さん、こんにちは。
私は幼い頃、肉親の死をきっかけに人生に対して多くの疑問を抱え、大きくなってからもずっと人生の真の意味を探り続けており、中年になってついに法輪大法に出会い、師父のご加護の下で、ほぼ20年の修煉の道を歩んできました。今日は師父と同修の皆さんに近年の修煉の心得を報告したいと思います。
1、「人を見下す」ことから、根本的な執着を見つける
ある日、同修と大法の仕事についての交流をし終わった時に彼女は「あなたは、いつも態度が大きくて、人を見下しているようだ」と言いました。ショックを受けて心が痛んだのですが、それでも「はい、帰ってから反省してみます」と答えました。自分の問題点はまだ見つかっておらず、何日も経たないうちに、また別の同修からも同じことを言われました。これは、きっと同修の言った通り、「傲慢」に関して自分はきっと大きな問題があるので、よく内に向けて探さなければならないと思いました。何人かの同修と交流して、私は「傲慢」という執着をはじめ、次から次へと多くの執着心を見つけました。
子供の頃からずっと、親や学校の先生の期待に応えられるように良い成績を追求し、大きくなってからは良い社員になるために一生懸命に仕事をし、これは私の人生だと思っていました。50年来、立身出世のために勉強と仕事の実績を追求する中、知らず知らずのうちに人と競うことを好む闘争心、人から尊敬されたい心、相手の気持ちより自分の目的だけを重視する私心、目標に達した時の歓喜心と顕示心、相手の至らないところを見た時の嫌な気持ち、また安逸心など......を育んだことが、同修たちと交流してやっと分かりました。
2、純真さを保ち、世間の思惑に流されないようにする
修煉して20年近くになりますが、「三つのこと」は良くできていません。いつも煉功の時に妄想をして集中できず、学法をする時に眠くなり、発正念の時に睡魔に襲われて手が倒れるという状態を繰り返していました。
ある年上の同修は、いつも優しく話し、彼女と話すたびに、大きなエネルギーが私の心の奥まで響く感じがします。数年前の交流で彼女は「いつも外に向けて見るのでなく、内に向けてずっと見ると、心の底にとても静かな場所があることにきっと気づく」と言いました。私に何を注意しているのでしょうか。
そして師父の経文を思い出しました。「異なる次元の最もミクロ的な物質がある程度まで行き当たったら、物質が無くなってしまいます。物質が無くなると、物質の顆粒は存在しなくなります。更に見ていくと、あることに気づきますが、物質粒子が存在せず、もの静かな、私が通常死水と呼ぶものが見えるのです。それは本源とも言う生命のない水です」[2]
心を震わせて、考えてみました。もし自分がずっと内に向けて探し、ミクロ的な方向へずっと探していけば、物質の本源までたどり着くことができるでしょうか。しかし、私はずっと外に向けて見ているだけで、それでは、私が見たものはすべて「無」、「空」ではありませんか。外に向けて見たのはすべて虚像であり、内に向けて探すことこそ大切だと、彼女が注意してくれたおかげで、私はやっと悟りました。
それから学法と煉功の時に、もっと集中して雑念を排除するように頑張ってみました。そうすると、注意力は散らなくなり、徐々に落ち着いて、学法と煉功の状態も良くなりました。そして、その状態を普段の生活にまで拡大して、普段でも思想の純粋さを保つようにしました。時間が経つにつれて、自分の変化に気づきました。マイナス思考は減少し、目で見た物事はすべて良いもの、ポジティブなものです。もちろん、トラブルと魔難も減少しました。
3、旧勢力の妨害を全面的に否定する
私と夫が結婚した後、夫はコンピューター会社を経営し始めましたが、毎年、何か不都合なことが起きました。友人との投資が失敗して資金も回収できないとか、政府から漏れた税金の支払いを要求されるとか、社員から金を借りられるとか......そのために夫の会社は赤字が続いて、家の貯金を崩して穴を埋めていました。長い間、私は夫の経営能力を疑って、いつもプレッシャーをかけ、会社が赤字になるたびに文句を言いますが、やむを得ずお金を援助し、毎年このような繰り返しの魔難の中で過ごしています。数十万から数百万の台湾ドルを夫の会社につぎ込んで、十数年間で、夫の会社に注入した我が家の貯金は1千万ドルに及んでいます。財務上の損だけではなく、夫婦関係も悪くなり、あわや離婚になるところでした。
こうして20年やり繰りしてきて、その中に自分の名、利、情に対する執着が萌えていると分かっています。会社の連年の赤字のために生じた金銭に対する執着、夫への恨みや不信という「情」、メンツを保つため、実家の家族と親友にも夫の会社のことを言わないのは、「名」に対する執着ではありませんか。二十年来、名、利、情の試練の中で、それらを抑えるように努力して、慎重に対応していますが、感情的になった時はやはり試練を乗り越えることができません。ある日、「必ずこの関を乗り越えて、旧勢力に支配されないようにする」と自分に言い聞かせました。
その時、師父の言葉を思い出しました。「考えの中の執着はどういう物質を形成しているのでしょうか? それは山です。巨大な山で、花崗岩のような硬い石です。一旦形成してしまえば、人間はまったくそれを動かすことができません」[3]。自分の執着自体が一種の物質であって、それを除去する決心を下したから、師父に助けられて、体は今まで経験したことのない軽やかさになったと悟りました。
心性を向上する中、以前の難は過ぎたようです。しかし、新型コロナウイルスの流行によって会社の注文はすべてキャンセルされ、損失は100万ドルもあります。この時、私はまた大法の中で答えを探してみましたが、見つかりませんでした。ある日、交流の時に私は自分の魔難を話すと、ある同修は「旧勢力は経済面であなたを妨害していると思わないですか」 と言い、続いて、もう一人の同修も同じ意見でした。私はこの法理を考えたことがないので、困惑の顔で彼女たちを見ていました。「私たちは旧勢力そのものが現れたこと、それらが按排した全てまで否定しており、旧勢力の存在自体を認めていないのです。私たちは根本から旧勢力の全てを否定しています。旧勢力を否定し排除する中で皆さんが行った全てこそ、威徳あるものです。それらが作った魔難の中で修煉するのではなく、それらを認めない中で自らの道を正しく歩むのであって、旧勢力そのものによってもたらされた魔難の現れを消滅することさえ認めないのです。(拍手) この角度から見れば、私たちが直面しているのは旧勢力を全般的に否定するということです。旧勢力の瀕死のあがきを私と大法弟子はまったく認めないのです」[3]を読んで、この20年間、私はずっと魔難の中で執着心を探し、それと20年近く葛藤して、やはり旧勢力を認めて、ついにそれに騙されたとはじめて分かりました。
旧勢力に経済面のことで私を迫害させないとはっきり意識してから、運命の輪はまた違う方向に回りました。キャンセルされた注文は戻っただけでなく、疫病流行の前よりも金額が大きくなりました。そして、資産を順調に処理できたおかげで、会社の資金は裕福になりました。さらに不思議なことに、会社が引っ越した後、新しい住所になんと50人も収容できるホールがあります。このホールは私の願いで出てきたものだと思います。神韻の宣伝に使いたいという願望があったからです。そして法の実証に使うことができます。この時、もっと清らかな心を以て、次の段階にまい進しようと思っています。
4、自分の願いでできた修煉の道
2年前、全台湾神韻宣伝経験交流会に、ある同修はコンサートを通じて芸術界の関係者に神韻を勧める体験を話しました。私は心を打たれて、幼いときから音楽を学んでいた自分も、彼女と同じようなことができるのではと思いました。しかし十分な資金がなくて、場所も確保できないために、行動に移りませんでした。
しかし、その願望は種のように心の中にずっと埋もれていました。2年後、20年にわたる名・利・情の魔難を突破した後、資金も場所(前文に触れたあのホール)も確保しましたが、この時の私は萎縮し始めました。私は静かな性格で明るい人間ではないので、適任でしょうか。知らない人と付き合うのが苦手な私は、主流社会の人々と良好な関係を構築できるのか、などのようなマイナス思考が頭に充満しています。
実は、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるものだと分かっています。私が常人の職業、身分、地位を重く見ているのは分別の心ではありませんか。恐れる心もあって、なかなか行動に移せません。その時、夫はしきりに「これは君と師父との約束ではないか、君という大法弟子がまだ素早く行動しないと、私という常人はコンサートをやるよ」と催促してきました。夫と同修たちの励ましの下で、私は恐れる心を突破しました。そして「それはあなたの願いでできた道だと分かるのです。偶然なことはありません」[4]を思い出しました。 そうですね、今やろうとする神韻の宣伝は、きっと自分の願いが後押しになったと思います。そして、次の段階の使命―「多くの主流社会の人と縁を結ぶこと」も心の中で明瞭になりました。
20年の修煉過程の中で、どのプロジェクトをするのか、どの同修と接触するのか、どんな魔難に遭うのかなど、決して偶然なことはなくて、すべて師父の按排と慈悲なるご加護によるものです。
以前の私は、いつも人の一面でどうするかを考えているのですが、以上の一連の修煉過程を経た後、今の私は、まず自分を浄化させ、自分を大法の中に溶かし一つの大法の粒子になって、師父のおっしゃった境地になるように頑張ります。「どんな事をしていても自分が大法の為にやっているとか、大法の為にどうすべきとか、大法の為にどのようにすればよりよく行なえるのかなどとは全く考えていないのです。自分を大法の中に置き、大法の中の一粒子として、何かをしているとき、それは私がすべき事だと思っていることをしています」[5]
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」
[2] 李洪志師父の著作:『米国法会での説法』「サンフランシスコでの説法」
[3] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」
[4] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
[5] 李洪志師父の著作:『導航』「北米五大湖地区法会での説法」
(2021年台湾法輪大法修煉体験交流会の発表原稿)