何度も迫害され、命の危険に晒された曲彩玲さんが死亡
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 【明慧日本2022年2月4日】(遼寧省=明慧記者)撫順市の法輪功学習者(以下、学習者)・曲彩玲さんは、何度も不当に連行され、1年6カ月の労働教養と懲役9年の実刑判決を言い渡されたことがあり、刑務所で拷問を受け、何度も命の危険にさらされた。長年の迫害により、曲さんは肉体的にも、経済的にも、精神的にも大きなダメージを受け、2022年1月22日に亡くなった。享年70歳。

 撫順市順城区政府の公務員だった曲さんは、法輪功を学ぶ前に様々な病気を患い、1997年2月に45歳で早期退職した。退職して2カ月後、曲さんは法輪功を学び始め、「真善忍」の基準に従って良い人を目指し、各種の病気が徐々に消えた。

 一、不当に1年6カ月の労働教養を強いられ、複数の労働教養所で迫害された

 2000年7月、法輪功の無実を訴えるために北京に行った曲さんは、天安門広場で連行され、撫順に連れ戻され、7日間拘束された。その時から、曲さんの毎月の退職金はストップされた。

 その直後の2000年8月25日、撫順城派出所の警官は再び曲さんを連行し、1年6カ月の労働教養を科した。撫順労働教養所では、曲さんは夜の9時、10時まで労働を強制された。仕事がないときは、「軍事訓練」を受け、炎天下に晒された。警官は紙で巻かれた木の棒を持ち歩き、指示に従わない学習者を殴った。多くの学習者は殴られて頭には瘤ができ、顔や体はあざだらけになった。

酷刑演示:码坐

拷問の再現:長時間腰掛に座らされる

 2000年9月22日、撫順労働教養所は、意志の堅い17人の学習者を馬三家労働教養所に送った。曲さんは馬三家の第二女性施設一大隊三支隊に連行され、常に監視され、毎日小さな椅子に座らされ、法輪功を中傷するビデオを強制的に見せられた。曲さんは法輪大法の信念を貫き、煉功を行い、嘘のビデオを見ることを拒否したとして、繰り返し拷問をされて、その場で気絶した。

 2001年4月、馬三家労働教養所は、10人の学習者を遼寧省各地の労働教養所に引きずり出し、「転向」を強制した。張士労働教養所に連行された曲さんは、血圧が240 mmHgまで上昇し、物が見えなくなり、命の危険に晒されたため、解放されて帰宅した。

 2000年、曲さんが拘禁された時、曲さんの夫は二度心臓発作を起こし、意識不明で病院に運ばれた。10歳の娘だけが家に残され、自分で料理、洗濯、買い物をしなければならず、毎日放課後に病院へ父親の見舞いに通っていた。10歳の子供にとって、母親が連行され、父親が入院している現実は、残酷なことだろう。(曲さんの長男は18歳で悪性リンパ腫で亡くなり、曲さんは39歳で長女を出産した)

 学校の教師である曲さんの夫は、社会のあらゆる方面からの圧力で、恐怖の日々を過ごしていた。そして、絶え間ない嫌がらせに耐えられず離婚を申し出て、娘と一緒に暮らすようになった。

 曲さんが馬三家労働教養所に拘禁されている間、曲さんの母親は娘が厳しい迫害を受けていることを知り、心配のあまり、2000年11月30日、悲しみと怒りの中で亡くなった。

 曲さんは出所した後、毎月の退職金の支払いを停止されたため、収入がない状態に陥った。曲さんは何度も順城区政法委と610弁公室を訪ね、退職金の返還を求めたが、未だに返還されていない。

 二、懲役9年の実刑判決を言い渡され、様々な拷問を受けた

 2002年10月9日の午後、曲さんは道路上で警官により連行された。その後、裁判所は曲さんに懲役9年の実刑判決を宣告し、撫順市留置場に拘禁したままにした。

 撫順第二留置場で、曲さんは断食して迫害に抗議した。副所長・于貴徳は、曲さんの両手を背中に回して手錠をかけ、足かせを付け、胃に管を挿入して無理やりに灌食を行い、食事に薬物を混ぜ入れた。

酷刑演示:铁椅子

拷問の再現:鉄の椅子

 寒い時期の2003年11月1日、指導員・張敬慧は曲さんの服を脱ぎ取り、手錠と足かせをかけ、鉄の椅子に縛り付け、すべてのドアと窓を全開したまま、曲さんの足を踏みつけ罵倒した。この拷問は2日間も続いた。

 当時、曲さんは迫害を受け、血圧が280 mmHgまで上がり、何度も危険な状態に陥ったため、留置場は2004年10月に曲さんを解放せざるを得なくなった。

 出所後の曲さんはすでに離婚し、一文も無い状態に陥り、身体は衰弱して、仕事もできない状態であった。

 2021年後半、曲さんは3回も危篤の状態に陥り、病院に運ばれた。最後に娘に15万元(治療費、約240万円)の借金を残し、2022年1月22日に亡くなった。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/1/26/437290.html)
 
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