明慧法会|「分岐点」の前に法理を明晰にし悪いことが良いことに変わった(二)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年2月20日】(前文に続く)

 私は「私たちは長年の学法を通じてみな、大法の修煉は主元伸を修煉している」ということを悟りました。副元神を修煉する人は常人社会を避けて修煉し、山や寺で坐禅の中で苦しみを舐め、業を消し、執着心を取り除きます。しかし私たちは複雑な常人社会の中で修煉し、身近にある利益の誘惑、得と失の取捨が、修煉の主体を構成し、人間のこの表面に最も直接的で最も鋭い衝撃と試練を与えます。

 私が戸惑いを感じ「くじけてしまった」と感じた理由の一つは、大法弟子の修煉形式を十分に理解していなかったこと、そして主意識が身近にある現実利益にとらわれ、絡みとられ、誘惑され、これらすべてを放下することは、生死を放下することに他なりませんでした。

 迷いと悟りの過程で、師父の「選択ということしかありません」[5]という法が常に私の頭に反映されました。私は「これは慈悲深い師父が私を啓発し、励まし、正念を与えてくださっているのだ」と悟りました。私は「私は大法を修煉することを選んだので、私は大法の要求に基づいて行わなければならない」と思いました。人間の生存を支えるさまざまな身近な利益が失われた時、もし私が利益をはっきりと淡白に見て放下すれば、人間であることを放下し、神のもとへ行くことになります。そして大法を守ることと基本的な利益の得失を守ることの間で、私が大法を守ることを選択すれば、師父が望んでいらっしゃることを実現し、大法の弟子としてふさわしいことを行ったことになるのです。

 法理の理解が深まるにつれ、自分の正念が強くなり、自分の言葉の強さもさらに違ったものになりました。例えば、嫌がらせをする者が子供や孫の将来を使って私を脅かし続けた時、私は落ち着いて嫌がらせをする者たちに「人にはそれぞれの運命があり[3]」と答えました。私はすぐに法に則り、常人の「前途と運命」への妨害はますます私に手が届かなくなり、嫌がらせをする者たちのやりくちも失敗に終わりました。

 娘たちの涙ながらの訴えを前に、私は娘たちに「あなたたちは自分と子供のために良い未来を手に入れたいと思うなら、法輪大法がすばらしいことを信じ、敬虔に大法を尊重すれば、人生の福を得られ、すばらしい未来に恵まれるでしょう。もし私があなたたちに従い、意志に反してサインするならば、私はあなたたちを大法の反対側に押しやることになり、あなたたちの人生を永遠に台無しにしてしまうでしょう。そうすれば、私は有罪であり、あなたたちも有罪であり、私はあなたたちを傷つけることになりませんか?」と言いました。

 私の心の中には大法があり、大法の基点に立ち肉親間の感情を取り扱い、娘や孫の将来と前途を見ているので、私の心は開かれており、当然のことながら子供への愛に振り回されることはありませんでした。少しずつ、私は肉親間の感情のもつれから抜け出して行きました。

 5月12日の夜、私は夢を見ました。私が行かなければならなかった場所は「分岐点」という名前であったという夢を見ました。山の両脇には岩場があり、ガレ場(訳注:岩がガラガラと積み重なった場所)の道は崩れていて凸凹していました。私は真っ直ぐ進んで、分岐点へ直行しました。なぜ分岐点に行かなければならないのでしょうか? 師父は私に何を悟らせようとなさっているのでしょうか?

 2021年5月13日の朝、私は学法グループで行われた「法輪大法デー」を祝う活動に参加しました。同修たちは「正念で向き合い、多く正念を発する」よう私を励ましました。なぜなら活動の初日に娘から電話があり「家で待っていて」と言われたからでした。ですから、5月13日の午後、私は家にいて正念を発し「ゼロ行動」の人員がやってくるのを待っていました。

 午後4時過ぎ、娘が「ゼロ行動」の人員たちと一緒に到着しました。そのうちの1人は、社区あるいは街道(訳注:役所)の出張所から異動してきたばかりの幹部で、この幹部はこの分野(法輪功)を担当している責任者だと紹介されました。私は静かに正念を発することだけに集中しました。その新しく来た幹部はいろいろなことを話し、最後に「人の信仰を変えるのは簡単ではありません」、「私たちがこのことを行っているのは不本意ながら行っているのであり、私たちはしたくはないのですが、当局から圧力がかかり、検査が必要になり、検査を通過しないということはできないのです。私たちも生活していかなければならず、これが私たちの仕事なので仕方なく、以心伝心でどうかご理解ください」と言いました。

 新しく来た幹部の話を聞き、彼らの態度を見ていると、彼らは自分たちの「ゼロ行動」が失敗したことを知り、大法弟子の正しい信念を揺るがすことができないことを知っていることがわかりました。この変化を見た時、私はすぐに師父が説かれた「世の中の全ての人は私の親族です」[5]を思い出しました。一瞬にして私の心は感慨で満たされ、私は瞬時に新しく来た幹部たちを親戚の立場に置き換え、私も瞬時に自分の修煉の境地の突破と昇華を感じました。

 私は彼らの無力さを思い、彼らの状況を理解しました。慈悲心が私に出てきて、彼らに対する防衛意識、警戒心、恨み、軽蔑、闘争心などがすべてなくなりました。私は誠意を持って彼らに「大法の師父は『世の中の全ての人は私の親族です』[5]と説かれました。私はあなたたちの状況を理解できます。あなたは以心伝心とおっしゃいましたが、私も同感です。しかし私に『三書』にサインさせるとしたら、それは 『办不到(できない)』の三文字です。私はあなたたちに対して責任があります」と言いました。

 私は「もし私がサインすれば、あなたたちは大法に反対し、大法弟子を迫害しているという事実が成立してしまいます。将来あなたたちはどのように償っていくのですか? もし私がサインすれば、あなたたちを害し、私の家族をも害することになります。前回あなたたちがMP3プレイヤーのSDカードを奪った時、私がなぜあなたたちに渡さなかったかというと、それは大法の物であり、あなたたちが軽視すると天罰が下るからです。私はただあなたたちが大法に対して犯罪を犯し悪の報いを受けるのを見たくないだけです……。この『ゼロ行動』は、上からのあなたたちへの圧力が大きく、あなたたちは気の毒なほど疲れています」と言いました。

 最後にこの新しく来た幹部は「あなたはやはり道理をわきまえています」と言いました。この時点で、3カ月間の「ゼロ行動」の迫害は基本的に終わり、私の家族の混乱も収まっていきました。

 ここで夢に出てきた「分岐点」の意味を私は考えさせられました。私は大まかに「それは大法を守り、修煉をしっかりと行うのか? それとも、個人的な利益を守るために中共に妥協し、大法を裏切るのか? 肝心な時に何を選ぶのか、それは人間と神との間の『分岐点』である」と悟りました。師父の慈愛深いお導きと励ましに感謝申し上げます。

 四、あとがき

 街道(訳注:役所)の出張所の新任幹部が私に会った後、私はそのことを学法グループの同修たちに話したところ、同修たちは私の不足を指摘しました。例えば、私は街道の出張所の新任幹部に「以心伝心で、私はあなたの窮状を理解しています。私にサインさせることはできません。検査に来ても、私は最大限に口をつぐみ、沈黙を守ることができます」と言ったことでした。同修たちは「これは間違っています。大法弟子は正々堂々と真相を伝え、主役となり、大法を実証し、迫害を暴露しなければなりません。大いに真相を伝えるべきなのに、どうして何も言わないのですか?」と言いました。

 私は「そうです、街道の出張所の新任幹部たちは毒があまりにも深く、真相を知らず、大法に対して誹謗中傷をするのですが、私は黙って容認するべきなのか?」と考えました。私はこの点においてしっかり行っておらず、邪悪な迫害にある程度協力していたことに気づきました。

 端午の節句に長女が帰宅して食事をしたところ、私に仕事を続けてほしいと長女の職場の上司が言っていることを知りました。長女は上司に「できません、私たちは死を以ってしても彼女にやらせることはできません」と言いました。上司は「それなら彼女に『承諾書』を書いてもらい、法輪功は彼女の個人的な行為であり、子供とは何の関係もないことを証明しましょう」と言いました。私はその話を聴いて「何を承諾するのか? 何をあなたたちに承諾しなければならないのか?」と思いました。しかし私は「これは何がそんなにすごいことなのか? ただ『三書』にサインしなければいいだけだ」とも思いました。そこで、私はこの考え方をもとに「説明」を書きました。私は「こうすることで、娘は上司に応えられるようになり、解放されるのではないだろうか」と思いました。

 私は学法グループに行って切磋琢磨した時に、自分がまた間違っていることがわかりました。なぜなら師父はこの迫害を認めておられないのですから、私たちは旧勢力が按排したこのすべての迫害を完全に否定しなければならないのです。私は中共の人員の言いなりになり「承諾」や「説明」を書くこと、これは迫害を認め、積極的に自分を迫害の対象として位置づけているということではないでしょうか? これはある程度において邪悪の迫害に協力しているということになるのではないでしょうか?

 私は「私は旧勢力の按排を全面的に完全否定しなければならず、そのためには一思一念すべてで協力することはできない」と悟りました。そこで、私は「説明」を取り戻せるように毎日師父にお願いしました。師父のご加護を得て「説明」は私の娘の手元に置かれ数日経っても手渡されず、リーダーも娘に何も求めませんでした。私は娘に提出せずに私に返すように言い、娘は本当に私に返し、私はすぐに「説明」を焼いてしまいました。

 師父の慈悲深いご加護に感謝申し上げ、しっかり踏み出せなかった一歩を取り戻すチャンスを私はようやく得たのでした。これでこの「ゼロ行動」の迫害は、比較的納得のいく形で終わりました。

 師父は「修煉の中で、皆さんは良いことに出会っても、良くないことに遭っても、すべて良いことです。なぜならば、それらは皆さんが修煉しているからこそ、現れたことだからです」[1]と説かれました。

 私は「今回の 『ゼロ行動』の迫害に対して反対することは短期間でしたが、私にとっては大きな意味があった」ということを経験しました。私は「師父の法に従って修煉しさえすれば、悪いことを良いことに変えることができ、ありとあらゆる困難と危険をも乗り越えることができる」ということを実感しました。

 今回の魔難の中で弟子に悟らせ、向上させ、昇華させてくださった師父に感謝申し上げます!

 同修のみなさんの惜しまぬ応援と励ましに感謝いたします!

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「シカゴ法会」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「大法は堅固にして破壊不可能である」
 [3] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇五年カナダ法会での説法」
 [5] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』

 (明慧ネット第18回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/11/17/433163.html)
 
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