圓満成就を求める心と思い込みの考えを取り除く
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2025年4月17日】修煉の過程で、一部の同修たちは、「修煉者は先に世を去っても後で去っても、最終的には圓満成就に至る」と誤って考え、それによって自分自身の修煉に対して真剣さを欠いています。実際には、そのような考えがある時点で、あなたの心の中には「圓満成就を求める心」や「当然そうなるだろう」という思い込みの考えがあるのです。

 師父は「大法弟子は先に去って行っても後で去って行っても、いずれも圓満成就するのです」(『各地説法十三』「二〇一四年サンフランシスコ法会での説法」)とおっしゃいました。しかし、師父がおっしゃったのは「大法弟子」であり、「学習者」ではありませんし、いかに修煉をしていたかも関係ないわけではありません。

 一部の同修は自分に対して厳しく律することができず、特に迫害が始まる前に修煉した古い学習者たちは、「自分は早く修煉を始めたのだから」と思い、自分の修煉に真剣さを欠いており、精進せず、人心や執着心が非常に多いのです。困難や魔難に直面すると乗り越えられず、甚だしきに至っては「早くこの世を去れば、どうせ圓満成就になる」と思い込んでいます。そのため、ここ数年、このような同修の一部が、法理がはっきりしないまま亡くなってしまいました。

 師父は「修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです。大法が中国で受けた邪悪な試練の中で淘汰されたのは、すべてこの執着心が取り除かれていない人です。同時に、大法にマイナスの影響を与えました」と語られました。(『精進要旨二』「圓満成就に向かって」)

 もし、亡くなった同修が生前あまり精進しておらず、師父が求められた大法弟子の行うべき「三つのこと」をしっかり行っていなかった場合、その人は堂々たる大法弟子と言えるでしょうか? 大法を修めることは非常に厳粛なものであり、圓満成就にも確かな基準があります。それは、最終的な大審判にも合格するものです。大法弟子としての誓約を果たせなかった人の結末は、どうなるのでしょうか? だからこそ、私たちは自分の修煉に対して責任を持たなければなりません。法を都合よく一部だけ切り取って理解するようなことをしてはいけないのです。

 もちろん、同修一人ひとりの状況は異なり、関わる要素も非常に複雑です。亡くなった同修の中には、揺るぎのない大法弟子も多くいますので、修煉中の私たちは、すべてを見通せるわけではなく、誰かについてはっきりとした結論を出すことはできません。ただ、私の周りにも「どうせ先に去って行っても後で去って行っても、いずれも圓満成就するのだ」といった消極的なことを言う同修がいますので、ここで自分の考えを書き出し、法理がはっきりしていない同修に注意を呼び掛けることができればと思います。

 私たちにできることは、ただひたすらに精進し、確実に修め、真に合格した大法弟子になることだけです。そうしてこそ、最後に誓約を果たして圓満成就し、師父について本当の家へ帰ることができるのです!

 個人的な体験ですので、大法に符合していないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/4/13/492557.html
 
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