必ず法をよく学ばなければならない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2025年4月4日】私は、修煉者の中に学法において問題があると気づいたのです。多くの同修が法を学ぶことを重視せず、法を効果的に学んでおらず、十分な量も学んでいません。また、一部の同修は法を学ぶことを重視していますが、『轉法輪』を学ぶことにしか重点をおいておらず、新しい経文をあまり学んでいません。多くの同修が非常に精進しているにもかかわらず、法に対する知識が不足しているため、自分自身に大きな困難を引き起こしており、何が問題なのかまだ気づいていないようです、「同修たちが法を学ぶことが少なすぎると感じ、師父がはっきり説かれたことを知らないからだ」と私は思います。

 私は悟性が悪いタイプです。はっきり言って、頭が錆びついているようでよく回らないのです。小学生の頃は成績が下位のほうだったのですが、その後、人一倍努力したおかげで、なんとか中位の上に上がったことを今でも覚えています。修煉において、私は自分の悟性が悪いとわかっていて、内に向けて探すことがよくできず、考える力が不十分であることを知っています。私が法を正す中でここまで来れたのは、法を多く勉強し、学法に力を入れたからです。師父の説法の『洪吟五』と『洪吟六』以外の経文はすべて暗記したことがあります。『精進要旨』一、二、三は何回も暗記しました。『洪吟一』と『洪吟二』は数え切れないほど暗記し、『轉法輪』も数え切れないほど暗記し、今は『轉法輪』を読まないで、暗唱して学んでいます。修煉者が書いた修煉文章に対する師父の評注も一度暗記しました。明慧編集部の文章もほとんど暗記しました。

 師父が説かれたことは法であり、修煉においてはすべてそれに従わなければなりません。ですから私は、師父の説法はすべて覚えておかなければならないし、暗記するのが一番いい方法だと思っています。簡単に例えると、もし学生がよく勉強したいと思えば、教科書を暗記する必要があるでしょう。私はそうだと思っています。私の学生時代はそうで、試験場に自信を持って行けました。

 私は主に『轉法輪』を暗記しましたが、他の経文も少なくとも一度は暗記しました。そうすることで、旧勢力が仕組んだ無数の魔難を避けることができ、同修が抱えるさまざまな問題を見透すことができます。これは主に法に頼って導くことであり、多くのことに遭遇した時、私は心の中ではっきりと、このことは法に則っているか否かを判断できるようになりました。これは自分の考えから出たものではなく、法を暗記し、法理を理解し、法を使って私を導くのです。私は自ら同修を探し、交流することはしませんが、もし師父の按排で偶然出会うことがあれば、同修の問題点、主に原則的な問題を指摘することにしています。

 私は、多くの同修が、法をあまり学ばず、法理をあまり知らないため、師父から原則的な事について間違ってはいけないと説かれたにもかかわらず、依然として間違いを犯し、繰り返し犯していることを見ました。特に、中国の協調人、有名人、同修の中で活発に動いている人、自分を見せたり表現したりするのが好きな人はそのような問題があります。多くの修煉者はたくさんの大法の仕事をしたようですが、頭の中に法が少なすぎて、法理がはっきり分からず、法を正すことを妨害してしまいました。しかし、本人はよく分かっていません。このようなことをする人たちをよく見かけますが、本当に恐ろしくて、説得しようとしても聞いてくれず、しかも強勢な人も多いのです。もし彼らがもっと法を学ぶことに力を入れていたら、同修の中で、あえてこのような目立つ行動をして、問題を起こすことはなかっただろうと思います。

 私は主に捻り出した時間で法を勉強します。この前の仕事はとてもやり易かったので、仕事の暇な時間に法を暗記しました。家に帰ってからやるべき家事をやって、それ以外の時間に座って法を勉強していたのです。もちろん、子どもの面倒も見なければならないので、なるべく子どもを誘って一緒に法を学ぶようにしていますが、子どもが成人してから無理強いはしません。 たいていは、私が誘ったら、すぐにやってきます。

 人間として生まれたのも簡単ではないし、この世で大法に出会って得たのも簡単ではないと思います。常人は学業や金儲けには全力を尽くしますが、私は「尊い大法を前にして、そのような精力を発揮しなければ、自分と大法に対する侮辱になる」と思って、学生時代と同じように努力し、ほとんど手を抜く勇気がありませんでした。もちろん、自分を緩めることもありますが、「精進しなければ、修煉をよく行わなければ」と、心から分かっています。

 法をよく学ぶということは、自分の体系の中にいる衆生を救うことでもあります。法をよく学ぶということは、師父が与えた功を動かし、大法の真実を伝え、衆生を救うことができるようになることなのです。この世に来たことを無駄にしないようにしたいのです。現世で師父の大法に巡り会えたことは、天の恵み中の天の恵みであり、それを大切にしないわけにはいきません。

 同修の多くは、実は私よりもずっと悟性がよく、内に向けて探すことがよくできていますが、法を学ぶことに十分な努力を払っていないことがあります。本当に残念なことです。そうでなければ、多くの同修が多くの無駄な回り道を避けられるでしょう。

 以上、私の少しの感想ですが、それを同修と分かち合うために書きました。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/3/31/491863.html
 
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