文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年5月14日】この1年、私は心を込めて学法に取り組み、半年間で『轉法輪』を2回暗記しました。1回目は3カ月ちょっと、2回目は2カ月余りで覚えました。法に溶け込むその感覚はとても素晴らしく、覚えれば覚えるほど、もっと覚えたくなるのです。
学法は向上のためのものであり、法の背後には、修煉における心性の試練、次元の向上、功の蓄積などの仕組みや要素が含まれています。そして最近、私の心性の試練や業力の転化のかたちは、家庭内、特に夫との摩擦という形で現れてきました。それはいつも突然、予想もしない場面で起きるのです。たとえば、このような出来事がありました。
ある日、夫が電話を終えると私に「日曜日、息子夫婦が昼食にくる」といいました。それで日曜の朝、私は食事の準備に取りかかり、煮込み肉、焼き魚、温菜、冷菜と、せっせと手を動かしていました。けれど台所は狭く、鍋や食器がごちゃごちゃしていて、あれを取るにはこれが邪魔、これをどかすにはあれが邪魔、という状態でした。そこで私は夫を呼び「いらないものをどかして、ちょっとスペースを作ってくれる?」と頼みました。しかし返事はなく、待っても来る気配もない。以前から夫はこうでした。呼んでも気づかないふりをするか、スマホでゲームや動画、カード遊びに夢中で手を止めようとしません。毎日がそんな調子です。こちらは油鍋から煙が上がり、ネギすらまだ切れていない状況で、焦っていた私は、少しきつい口調で再び夫を呼び、小声で文句も言ってしまいました。すると、ようやく現れた夫は、台所の入口に立って大声で言いました。「お前、もっとまともな言い方できないのか?」と、それも2度も責め立てるような口調で。私は内心おさまらず「こっちは忙しくて、てんてこ舞いしてるのに、そっちは何もせずに文句ばかり」と思い「できないわよ」と不満気に言い返してしまいました。すると夫は、大股でこちらに近づいてきて、腕を振り上げて「ぶつぞ!」と怒鳴り、指を私の鼻先に突きつけて「もう一言でも言ってみろ」と脅してきました。私は驚きで何も言えず、夫の目を見ることすら怖くなりました。まさかここまで激しく怒るとは思いもしませんでした。夫は怒鳴り散らした後、その場を去り、私は何事もなかったかのように調理を続けました。昼になり、息子夫婦が来て一緒に食事をとり、その場は普通に過ぎました。
表面的には私は「忍」をしたように見えましたが、心の中では収まりがつかず、夫に対する恨みや理不尽さを感じていました。すると突然、あることを思い出しました。数カ月前、夫が病に倒れ、歩行困難となり、下痢も伴っていた頃、私は毎日彼の排泄物を処理し、拭き取り、夜中も何度も起きて世話をしました。そのとき彼は深く感動したようで「お前も、もう70歳を過ぎているので、これからはもっともっと大切にするからな」と言ったのです。当時の私は、その言葉を気に留めることもなく「修煉者は見返りを求めず、相手のためを思うもの」として受け流していました。けれど今回の「不満」が顔を出したことで、その言葉を不意に思い出してしまったのです。あの「もっともっと大切にする」という約束を。
ここ数日、私は夫の部屋に入る気になれず、以前のように何気ない会話を交わすこともなくなっていました。心の中に距離が生まれ、極端な考えすらよぎりました。「もし自分が修煉者でなければ、とっくに言い争いになっていた。誰が誰を恐れるものか! こんな理不尽な扱い、黙って我慢していられるか!」と。
しかし、気持ちが落ち着いてくると「業力の転化」と「一挙四得」の法理を思い出しました。「ああ、師父は私が法をよく背読しているのをご覧になって、次の段階へ進むよう導いてくださったのだ。これは心性を鍛え、功を伸ばすための試練。つまり良いことなのだ」と思えるようになりました。夫が怒りを爆発させたのは表面的な現象にすぎず、本質は私を向上させるための助けだったのです。彼自身も大変な状況の中で生きているのだと思えば、感謝すべき存在なのです。
今回の衝突を通じて、私の中には怨みの心、被害者意識、争う心、そして家族への執着といった多くの人心が隠れていたことが露わになりました。こうした心を持っている限り「忍」とは到底言えません。本当の「忍」とは、個人的な感情や執着の混じらない、純粋で正しいものでなければならないのです。
自分の欠点に気づき、法理の上で一段と向上できたとき、不思議なことに夫の態度も変わってきました。台所の掃除を進んで手伝ってくれるようになり、食後は自ら食器を片づけ、時間になると私に「発正念だよ」と声をかけてくれるようになりました。私たち夫婦の間にあった心の壁もすっかり取り払われました。
「忍」とは素晴らしいものです。よく言われるような「我慢して耐える」、「仕方なく従う」といったものではありません。「忍」とは思考の昇華であり、次元の向上であり、同時に功の増進でもあります。修煉者が本当に「忍」を実践できたとき、それは本来の自分に立ち返る道の一歩となるのです。私も真相を伝える中で、人々に「真、善、忍」の素晴らしさを話しています。「忍」は矛盾を解き、怨みを晴らし、業力を償う力を持っています。「忍」は家族を円満にし、幸せをもたらす力があります。
大法弟子は「真、善、忍」を修める者であり、それを実際に行動に移す者です。「真、善、忍」と同化する中で、寛容や譲り合いの心が家庭にも社会にも調和と福祉をもたらします。今、世界が最も必要としているのは「真、善、忍」なのです。