道についての理解
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 【明慧日本2024年12月7日】ある日、私たちは同修真相資料を届けに行きました。ある交差点の曲がり角のところで前方の車が後退してきました。何が起こっているのか分からず近づいてみると、2台のパトカーが路上に停まり、バリケードが設置され、数人の交通警官が忙しそうにしていました。 私たちは引き返し、別の道を通ることにしました。最初はどの道を行けばよいか分からなかったのですが、しばらくしてある道を思い出し、その道は通りやすいことに気づきました。

 私たちは歩きながら「なぜこのような状況に遭遇したのだろう? 交通警官が現れたことには、何か私たちへの示唆があったのだろうか」と考えましたが、その時はあまり深く考える時間がありませんでした。

 翌日、この出来事を再び思い出しましたが、皆はどう解釈すればよいか分かりませんでした。そこで師父の「人間を例にして言えば」『轉法輪』を思い出しました。私は人体の構造に照らして考えました。人体にも道があり、血管や経絡のようです。これらの道が正常な生命の循環を維持しており、もしどこかの道が問題を起こせば、病変が生じ、長引けば生命の危険が及ぶことがあります。スムーズな道は生命を成就させるものです。これが有形な道であり、有形の道の背後には必ず無形の道も存在します。

 人体の経絡がスムーズであるかどうかはその人の心性や業力に関わります。大法に符合する全ての道は生命を成就する道です。大法に同化した生命は道の中で生きる生命です。

 ある同修は法を良く学び、正念を発し、真相を伝え人々を救うことをすればよいと思い、法を実証することに十分に重視していません。学法は積極的で、毎日法を読んでいるものの、字面の意味しか読んでおらず、長期にわたり法理が見えない状態です。これは修煉がまだ十分ではないのではないでしょうか。私たちは生まれたところに戻ることができるのでしょうか。より多くの宇宙衆生を救うことができるのでしょうか。

 これは私個人の現段階の理解であり、参考になれば幸いです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/10/17/483861.html
 
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