文/海外の大法弟子
【明慧日本2024年8月14日】病業について皆さんと交流したいと思います。私の考えは、大法に害をなす大きな悪事を犯していない限り、真の修煉者にとって、越えられない病業の関門は存在せず、否定できない旧勢力の按排もないはずです。では、なぜ一部の人がこのような関門に直面し、さらに命を失う場合もあるのでしょうか。三つの観点から語りたいと思います。
1. 大法への認識と自身の修煉に対する理解
皆さんは、私たちが修煉しているのは宇宙大法であることを知っています。しかし、それはただ言葉だけの理解なのか、あるいは心から本当にこのように認識しているのか、という点が問われます。
例えば、あなたの両親が天下を支配する王で、非常に裕福で、黄金が至る所にあります。あなたはある原因で記憶を失い、小さな村に流れ着き、山ほどの借金を抱えています。普通の村民として、その借金は天のように大きく感じるかもしれません。しかし、あなたが本当の家を知り、帰り道を見つけた時には、その借金を天のように大きく感じますか? それがあなたにとって、超えられない溝のように感じますか? あなたは自信がなく、まだ元気が出ませんか?
真の大法弟子として、私たちの目の前に金山があっても見えない根本的な原因は、私たちが法を本心から理解していないこと。そして、大法弟子の責任と使命を認識していないことだと思います。
2、私たちの思惟や観念を見つめ直す
ある人は「大法は偉大だが、自分の能力が足りない」、あるいは「まだそこまでのレベルに達していないから、旧勢力の按排を打ち破るのは難しい」と言います。
この問題について、私はこのように考えています。表面的にはあなたが大法を修煉していますが、別の角度から見れば、実際には師父があなたを選び、成就の機会を与えてくださったのです。あなたには後ろ盾があります。というのも、あなたの存在は、あなた個人の問題にとどまらないからです。この視点から考えると、あなたが自分にはできないと思うことは、単にあなた自身が自分をどう見ているかという問題だけでしょうか? そこには旧勢力があなたに対して按排したものがあり、あなたの思考や思考方式に対する按排もあるのです。
もし、自分にはできないと思うなら、その思惟はあなたの能力を制限し、護法の神やあなたの周りにいる正神たちが彼らの能力や権限を発揮することを制限してしまいます。そうなると、彼らもあなたを助けることができません。なぜなら、彼らがあなたを助けるには、法理に基づいていなければならないからです。あなたの能力や正の要素があなたに作用するためには、あなたの思惟に一致していなければならないのです。あなたが自分にはできないと思えば、本当にできなくなってしまいます。あなたが、どの次元の法に一致しているかによって、その次元の法の力があなたに現れるのです。
明慧ネットにある記事で、孫悟空が黒白無常(訳注:こくはくむじょう。中国の民間信仰における死神の一種。黒色と白色の二人組とされる場合が多い)の冥府に連れて行かれたとき、彼は寿命が尽きたと告げられました。人間の理では、それは人の死を意味します。しかし、彼は自分の境遇を理解すると、その言葉を全く認めず、そんな概念すら持たず、目をカッと見開いて「私はすでに三界を超え、五行の中にはいないのに、どうして地獄の支配を受けるのか?!」と言いました。彼は自分に対して非常に強い自信を持っており、地獄は彼をどうすることもできなかったのです。
また、私たちが発正念をすること、特に、生死に関わる難関に対して発正念をする際に、多くの人が受動的で、消極的であるという問題があります。多くの人が既にその人が駄目だと認めてしまっていたり、あるいは自分で駄目だと思っていたりして、単純に表面的に発正念して、いくら頑張っても結果を変えるのは難しいと思っています。
この問題は非常に深刻です。例えば、二つの軍隊が戦うとき、一方が強く、一方が弱いとします。弱い軍隊の人々が「自分は全力を尽くすが、力の差が大きすぎて、結局は負けるだろう」と考えているなら、戦いが始まる前に、既に自分たちが負けると思っているのです。たとえ全力を尽くそうと思っていても、負けることを前提とした努力に過ぎませんから、負けるのは当然です。しかし、歴史上には少数で多数に勝ち、弱者が強者に勝った例はたくさんあります。
だからこそ、私たちは本当に自分の思惟や観念をよく見つめ直し、正法の基点に立ち、衆生を救い済度する基点に立って、それが法に一致しているか、旧勢力に一致していないかを確認する必要があります。特に、根本的な是非の前で、あるいは生死の難関の前で、その一念の差が天と地ほどの違いを生むのです。
3、自分の行動で迫害を否定する
以上の二点以外にも、もう一つ非常に重要な要素があります。それは、行動で否定することです。
心と体を一体化し、認識や思惟、観念のすべてが法の基点に一致するならば、自分の行動も大法の要求に一致させる必要があります。難関を乗り越えるとき、特に大きな難関を乗り越えるとき、体は非常に苦痛を感じますが、その苦痛を認めず、自分がすべきことをするのです。考えてみてください、体が非常に苦痛で動きたくないと感じるのは、旧勢力が必死にあなたの体をコントロールしようとしているからではありませんか? あなたがやるべきことをやらせないのではありませんか?
それに対して、あなたがすべきことを一生懸命に行うことは、あなたが必死に自分の体のコントロール権を取り戻そうとしていることになるのです。もし、あなたがその苦痛に従ってしまえば、一時的にはそれほど痛くないかもしれませんが、それは旧勢力の按排の道を歩み始めることであり、あなたの体はますます彼らにコントロールされ、苦痛もますます増えていくのです。
日本に高齢の同修がいます。彼女が大きな難関を乗り越えたとき、彼女の言葉によると、全身の骨が砕けたように感じ、体が全然動かず、ただ平らに寝ているしかありませんでした。他の人が彼女を病院に連れて行こうとしましたが、彼女は行かず、他人の助けも拒みました。トイレに行くために、彼女はベッドの上で少しずつ動き、床に落ちてはまた少しずつ動き、わずか数メートル先のトイレに行くまでに2時間もかかりました。
煉功ができない状況の時は、ベッドに横になって煉功し、法を学べない時は、法を暗唱しました。とにかく、自分を正常な状態に戻すために、あらゆる条件を自ら作り出しました。現在、彼女は健脚で、一般の若者よりも精力旺盛です。彼女は師父への信仰と大法への信仰に基づいて、行動で旧勢力の按排を否定したので、大きな難関を乗り越えることができました。
あなたが本当に心から旧勢力を否定しようとするとき、あなたの体内の正の要素も旧勢力のコントロールから抜け出そうと努力します。あなたの護法神や周りの正神もあなたを助け、師父と大法もあなたを加持してくださいます。そうすれば、あなたには乗り越えられない難関などないでしょう。
道理はみんな理解できるかもしれませんが、具体的な問題に直面すると、やはり多くの疑問が生じます。まず、学法と煉功は毎日必ず行う必要があり、特に学法の際には、心を静めて学法することが重要です。これが旧勢力の按排を破るための基礎です。
また、私にはいくつかの体験があります。私の方法は非常にシンプルで、それは「静」です。私たちが表面的にどんなに苦痛であっても、どんなに苛立(いらだ)っていても、どんなに越えられないと思っても、自分をできるだけ静かに保ち、自分の内心を感じ、さらには内心の内心、つまり深い次元の空間の自分をも感じるようにします。本当に感じることができるなら、そこは静かであり、いかなる苦痛もなく、平和であることに気づきます。そして、その苦痛や苛立ちは表面に浮かんでいるものなのです。この時、あなたは本当にその苦痛や苛立ちがあなた自身ではなく、表面に付着している物質であることを感じるでしょう。これにより、それを自分自身から切り離すことが容易になります。その時、その苦痛は、たとえ一時的にあなたの表面の体をコントロールしても、あなたの心まではコントロールできません。
密勒日巴(ミラレパ)佛が病業を表現した時、彼の心は痛みを感じていませんでした。これは修煉者として達成すべき基本的な状態です。私たちは法を正す時期の大法弟子であるため、不必要な苦痛は受け入れず、善解したり転化したりします。なぜなら、私たちには大法を実証し、衆生を救い済度する責任があり、このような妨害を受け入れることはできません。そして、大法にはあらゆる智慧があるのです。
では、どうやって「静」にするかということですが、この体験がない同修には分かりにくいかもしれません。現実的には、私たちの心を乱すものが多すぎます。例えば、あらゆる映像です。私は、必要ではない限り、映像を見るのは避けるべきだと思います。特に常人のものは、あなたの頭や体に多くの雑念を注ぎ込むでしょう。そうすると静になれないだけでなく、ひどい妨害を受けることになります。煉功時の眠気や疲労、集中力の欠如、さらには常人社会での妨害もこれに関連しています。
次に、長時間の発正念を行うことが非常に重要です。これは、自分自身の悪い要素や旧勢力の妨害を取り除くためです。長時間の発正念は、人に大きな変化をもたらし、思考が明晰になり、行動に集中でき、問題や妨害が少なくなります。あなたが続けられるなら、これらを実感することができるでしょう。また、多くの大きな難関が知らないうちに解消されるかもしれません。
できるだけ映像を見ないで、長時間発正念を保ち続ければ心が徐々に落ち着いてくるのを感じるでしょう。もちろん、心を落ち着かせるということについて誤解する人もいます。それは静かな環境で座って、何も邪魔されずに初めて静かになるというものです。私の理解では、最初はそうかもしれませんが、心が徐々に静まってくると、何をしても静かになれるようになります。たとえば、学習するとき非常に集中すれば、学習の進捗も速くなります。仕事をするときも同様です。
心が徐々に静まってくるのを感じ始めたら、常に内心を感じることができます。最初は慣れていないかもしれませんが、徐々により深い内心の状態を感じるようになるでしょう。感じることがますます深く、微視的になっていくにつれて、ある程度まで来ると、あなたがいる環境がどれほど騒がしくても、微視的な自分は静かで安らかであることに気づくでしょう。もし、自分の深い次元の自分を守り続けることができれば、外部からのあらゆる感覚は心を動かすことができません。常人には「泰山が目の前に崩れても色は変わらない」と言います。師父は『精進要旨』「白日の下にさらけ出す」の中で、一つの例を出して、「いかなる常人の心であろうと、すべて取り除かなければなりません! 『何を恐れるのか、頭が落ちても身体はまだ坐禅している』と言った弟子がいますが、比べてみれば、修煉がどのようになっているかは一目瞭然です」。私の理解では、このような状態を指しています。
実際、私たちがこのような状態に達すると、表面的な業も大したことではなくなります。必要であれば、それを受け入れて、耐えて、密勒日巴佛のように、それはもはや実質的な害を与えることはありません。なぜなら、それはあなたの心に届かないからです。解決すべきであれば解決します。その時、生じる念は微視的であり、知恵に満ちています。あなたが示す能力も、内面の深いところから来ているので、大きな能力もあり、自分で多くの問題を解決できるでしょう。その時、業についての考えや概念もありません。師父が『洪吟六』の「人と己を済度するは難しい」の中に「上士は難があっても、一笑に解けるが」と述べられたように、難関を越えること自体も問題になりません。
以上は私の個人的な理解ですが、皆さんが法に基づいて参考にされるように祈ります。とにかく同修には妨害をできるだけ減らし、私たちの使命をより良く果たし、本当に師が法を正す事を手伝い、衆生を救い、済度することを願っています。